ゲッペルスが印象的な軍服にこだわり続けることによって、ドイツ軍隊は軍服をブランド化させて強い存在であると周りに印象を植え付けていきました。, ドイツの陸軍の軍服はとても有名で、全世界でコスプレなどでも使用されています。しかし有名な軍服である一方、アジアでは度々問題となっています。アジアではナチスドイツのホロコーストなどのことは深く学習しないため、歴史的な事実よりも、鉤十字や敬礼などのシンボルが独り歩きしてしまっています。, 日本ではドイツ軍隊の問題についてはあまり学習しないためか、度々ドイツ軍隊の軍服を着たアイドルが話題になり批判の対象となっています。最近でもアイドルグループがハロウィンのコスプレイベントでドイツ軍服風の衣装を着たため、問題となりました。 ドイツ連邦軍はnato軍の一員としてヨーロッパ防衛義務を負う。連邦軍の任務は基本法の87条aに規定されており、活動が許されるのは「防衛」のみとされている。 しかし1990年以降、国際情勢が東西対立から全体的な不安定状態へと変化しており、ドイツ軍はその対応が問われることになった。 ドイツの軍服では、軍隊に制服が導入された17世紀から現在に至るドイツにおける軍服の変遷、および各国への影響について述べる。また、特にヘルメットについては「ドイツ軍のヘルメット」も参照。 ドイツ北部にある「ムンスター戦車博物館」に行った時に、戦車だけでなくてナチスドイツ軍の勲章、軍服類も見たので、それらの写真をアップして紹介をする。ドイツ軍、第二次世界大戦に興味のある人にとっては、とても貴重な物ばかりである。 Philip J Haythornthwaite (1991). 軍服、洋服(ミリタリー フィギュア)の新品・未使用品・中古品なら、ヤフオク!。ヤフオク!は常時約5,000万点以上の商品数を誇る、誰でもかんたんに売り買いが楽しめるサービスです。圧倒的人気オークションに加え、フリマ出品ですぐ売れる、買える商品もたくさん! しかし、ドイツ軍服のデザインのかっこよさなどから、日本ではナチスを連想させるようなコスプレや制服などは多くあり、その軍服を着てテレビに映るなどするたびに、謝罪へと至っています。, ドイツ軍服の防寒用コートもデザインがかっこよく、襟が大きく開いており、現代の「トレンチコート」のような形をしています。また、将校の中には、オーダーメイドで革のコートを作る人もいたようです。 現在のウクライナ軍. 現代では軍服は一新されたものの、将校用の軍服などは昔からのデザインが踏襲されており、ちょっとしたところが似たデザインになっています。, 海軍の軍服は時代とともに変遷しており、デザインも変わってきています。帝政ドイツ時代は一般的なセーラー服でしたが、ナチスドイツ時代になると、軍服から兵士の士気を上げることを目的にしたため、黒い色にしたり、骸骨のシンボルを採用する等、かっこいいデザインとなるように様々な所で工夫されるようになりました。 London: Osprey. ドイツ軍 制服 軍装 軍服 レプリカ ジャケット グレー【サイズ】記載サイズ:M肩幅:約46.5cm身幅:約50cm着丈:約73cm袖丈:約66cmカラー:グレー【状態】レプリカですドイツ軍の制服かと思います薄手のジャケットです当方、詳しくありません状態等は写真でご判断頂ければと アメリカ軍やイギリス軍と比べて、どうしてドイツ軍の軍服があんなにかっこいいのか納得できた。 第2次世界大戦当時、他国軍の軍服には申し訳ないけど、ナチス・ドイツの軍服は比較にならないレベルの … プルット 、 ロバート・J. ドイツの軍服では、軍隊に制服が導入された17世紀から現在に至るドイツにおける軍服の変遷、および各国への影響について述べる。また、特にヘルメットについては「ドイツ軍のヘルメット」も参照。, 17世紀に入った頃からヨーロッパの軍隊では兵士が着る服の色の統一が図られるようになり、やがて仕立ても標準化されるようになった。そして、ドイツの一部領邦ではオランダ、デンマークと並んで最も早く服の色の統一が図られたとされている[1]。, 1660年代からフランスのルイ14世が行なった軍制改革によって近世ヨーロッパの軍制が確立し、その新しい服装(ジュストコール)もプロイセン王国および神聖ローマ帝国たるドイツの各領邦に制服として採用された。一方のフランス軍も七年戦争以降、衛兵隊の上衣にプルシアンブルー(ドイツ語ではプロイシッシュブラウ、ドイツ語: Preußisch Blau)と呼ばれる紺青の軍服を導入する[2]など相互に影響し合っていた。しかし1806年にプロイセン王国がナポレオンに敗北するとプロイセン軍は消滅。程なくゲルハルト・フォン・シャルンホルストによって再建された新生プロイセン軍は、エポレット、シャコー帽、燕尾服型の上衣(コレットと呼ばれた)など完全なフランス式となる[3]。一方で、フランスを良しとしない反仏義勇軍は学生帽から発展したシルムミュッツェ(官帽)、市民の上着から発展したユーバーロック(ドイツ語: Überrock、フロックコート)など独自の制服を有し、ナポレオンに反攻を開始した1813年以降、これらは愛国的な軍服として国民軍(後備軍)制服に導入された[4]。, 普墺戦争でオーストリアを、普仏戦争でフランスを下すとその影響力は強まり、「ドイツ式」軍服がヨーロッパ各国に採用されるようになる。以降、ドイツ帝国が崩壊する第一次世界大戦まで「ドイツ式」が軍服の流行を主導する。, フランス革命前後より前合わせをホックで留める様になり、前留に連隊色を配した。擲弾兵はグレナディアーミュッツエ(ドイツ語版)と呼ばれる冠を被った。, ドイツの各領邦ではナポレオンの侵攻を受ける以前よりフランスの影響が強く、ウーランカ(ナポレオンジャケット)が広く浸透していた。バイエルンでは1789年より歩兵連隊で袖口・襟・折返しを統一させた軍服が制定される。外套は白色であったが、1799年よりライトブルーに切り替えられた[5]。, 1813年解放戦争へ出征するイェーナの大学生。リュッツォウ義勇軍の服に着替えている, 1813年当時のブランデンブルク辺境(Kurmark)郷土軍。左から兵卒、下士官、将校, ナポレオンの支配を脱したドイツ諸領邦は、軍服の脱フランス化を推進した。1842年、プロイセンはシャコー帽に代わってピッケルハウベと呼ばれる特徴的な槍つきヘルメットを導入。また1842年10月23日、コレットに代わり「ヴァッフェンロック」(ドイツ語: Waffenrock)と呼ばれる軍服を採用[6]。生地はドスキン製で、直径25ミリのボタンが9個入る。着用対象は歩兵、砲兵、輜重、工兵[6]、竜騎兵は水色、猟兵は深緑。襟の高さは7センチで、1867年以降は襟が4.75センチに下がる。諸領邦でも1849年以降広まった[6]。マクデブルクは1864年よりダブルブレスト。ヴュルテンベルクでもダブルブレスト。ブラウンシュヴァイクは肋骨服型。, ランゲンザルツァの戦い(普墺戦争)で攻撃を受ける砲兵。手前の歩兵が攻撃を防いでいる。, 1868年当時の野戦砲兵第4連隊のヴァッフェンロックとサーベル。一年志願兵だったフリードリヒ・ニーチェが除隊する際に撮影, 軍参議(1,4,10)、軍医(2,6,8,9)、輜重将校(5,11)、傷痍軍人団将校(3,7), 1871年のドイツ統一により、プロイセン王国を中心とする連邦国家ドイツ帝国が成立した。ただし、軍隊は領主の所有物であるという観念から「ドイツ帝国陸軍」というものは1918年の帝国崩壊まで存在せず、服の系統こそある程度統一が図られど、将官襟章やコカルデ、ボタンの紋章、肩章、サッシュ、刀緒等構成国ごとで仕様が異なった。とりわけ、バイエルン王国は普墺戦争敗北の借金によって併合されたという背景から独立意識が強く、徽章やパイピング、ボタンの色に至るまで差異が目立った。, ユーバーロックの襟には連隊色ないし軍団色が入る。将官でも名誉連隊長として各連隊色を入れていた。例えば、ヴィルヘルム1世は近衛歩兵第1連隊名誉連隊長のため赤、オットー・フォン・ビスマルクは重騎兵第7連隊名誉連隊長のため黄色であった。驃騎兵のみ略衣はユーバーロックではなく肋骨を使用。また、バイエルン王国の連隊のユーバーロックでは7×2ボタン配列で、前合わせのところにパイピングが入る。ボタンには王冠、バイエルンのみライオンの紋章が入り、前合わせは左向、ブランデンブルク型袖と裏のダブル配列のボタンは顔が向かい合うように、スウェーデン型袖の場合は反対側となる。, 1893年に前合わせがフライフロントの野戦服が導入される。基本的にポケットはないが、上級下士官や将校では個人の裁量で付けているものもある。色はプルシアンブルーだが、騎兵は灰色となり、バイエルン王国軍では水色となる[7]。1907年4月19日、植民地で使用されていた「野戦灰色」(フェルトグラウ)の生地を本国でも歩兵および砲兵の野戦服に採用[8]。1908年3月5日にウーラン、竜騎兵、胸甲騎兵[8]、1910年2月23日には将校にもフェルトグラウが導入された[8]。軽騎兵はウーランカ、徒歩砲兵はブランデンブルク型袖で前合わせのパイピングが赤、袖が黒。工兵はスウェーデン型袖で胸、襟ともに黒。航空部隊は袖章を除き砲兵と同様で、肩章はグレーの台にプロペラが付く。略衣の襟章は黒に赤淵。制帽は砲、工、通信、鉄道兵は赤パイピングに黒い鉢巻。, 第1次世界大戦勃発後の1915年3月3日には、M1907/10の袖口ボタンなどを廃した略式野戦服(Vereinfachte Feldrock)が制定される[10]。同年9月21日の勅令にて、全兵科共通野戦服が制定され[8]、同時に兵科色が制定される。前合わせはフライフロントとなった[11]。ヴュルテンベルク王国は10月、ザクセン王国は11月、バイエルン王国は翌年3月31日通達。なお、特技兵たる猟兵、狙撃兵、騎猟兵、乗馬猟兵はグレーグリーンであった[12]。また、以前までは国家毎に違った将官襟章も改定でプロイセン王国軍の柏葉に統一された。ただしバイエルンのみ銀刺繍、台がグレーと他の軍と違い襟元にバイエルンを示す水色と白のトレッセがあしらわれた。この他、同1915年に平時礼装が制定された。, 第一次世界大戦中の1916年からピッケルハウベはシュタールヘルム(鉄兜)に変えられていった[9]。, ヴェルサイユ宮殿でのドイツ皇帝ヴィルヘルム1世の戴冠式。戦時中のため常勤服に勲章を着用している。, 「ピッケルハウベ」を着用したオットー・フォン・ビスマルク。襟は重騎兵第7連隊名誉連隊長であることを示す。, M1895ヴァッフェンロック着用の兵士ら。中央の人物はトレッセを佩用している。(1898年), 同じくM1895ヴァッフェンロックの兵士ら。シュヴァルヴェンネスト(ドイツ語版)を付けた手前2名は軍楽兵(1898年), 槍騎兵将校用M1907/10野戦服のプロイセン陸軍大尉(マンフレート・フォン・リヒトホーフェン、1917年頃), 第1軍司令部幕僚。中央(アレクサンダー・フォン・クルック)と左の将官はM1907/10将官用野戦服を、それ以外は通常のM1907/10を着用(1914年), M1907/10将官用野戦服の陸軍中将(アルフレート・フォン・ベッセル(ドイツ語版)、1916年ごろ), M1915全兵科共通野戦服着用のバイエルン王国軍近衛歩兵連隊所属の少尉。アントン・グラーフ・フォン・アルコ・アオフ・ファーライ, ドイツ帝国の軍帽に用いられた帽章。左上が統一ドイツ帝国、他はバイエルンなど諸邦を示す, ドイツ領南西アフリカなどの植民地に展開する保護軍(Schutztruppe)では主にカーキ色、のちフェルトグラウの軍服に防水帽(Südwester)が使用された。防水帽のパイピングの色は、南西アフリカは青、東アフリカは白、カメルーンは赤。, ドイツ領南西アフリカでは1889年、フランソワーズ部隊(Francois-Truppe)から詰襟6つボタンの簡素な野戦服が着用される[13]。1891年6月4日に青の詰襟やポーランド式の袖に銀のパイピングを配したコーデュロイの被服が制定された。防水帽のほか、フランス風のケピ帽も使用した。襟、ボタン合わせ、袖に青のパイピングを配したカーキの防暑モデルもある。1894年6月11日にコーデュロイ、カーキともに折襟となる[14]。, ドイツ領東アフリカ保護軍(ドイツ語版)およびカメルーン保護軍では前身のヴィスマン部隊が1889年よりカーキの野戦服、白の勤務服、プルシアンブルーのパレード礼装の3種類を使用。徽章は海軍型袖章あるいは陸軍型肩章のみの簡素なものであったが[15]、保護軍への昇格をきっかけに1891年7月4日、新型被服を導入。袖口にブランデンブルク型のボタン、襟章などが追加される[16]。, 1896年11月19日に植民地統一被服が制定される。帽子が官帽となるほか、袖もポーランド式の山形袖から直線に変更[17][18]、1897年3月11日にフェルトグラウとなる[19]。, 義和団の乱後の1900年7月より天津(中国語版)に派遣されていた東アジア遠征軍団(Ostasiatisches Expeditionskorps)では遠征用野戦服が導入され、夏はカーキ色[20]、冬はM1893であったが、翌年2月9日より冬服でフェルトグラウの軍服が導入される。外観は後年の共通野戦服に似ている。1904年以降、夏もフェルトグラウとなった。, M1897着用のドイツ領南西アフリカ保護軍将兵。左は完全軍装の騎兵、右は礼装の将校。下段には、灰緑色のウール布地のほか、カーキ色のコットン布地も使用されているとの記載がある。(1901年), ドイツ領東アフリカ保護軍将兵。左より通常勤務服の軍曹、野戦服の少尉、アスカリ(1901年), 1921年から襟章に二本の線のドッペルリッツェン(ドイツ語版)が将官を除く全陸軍軍人の共通の襟章に定められた[21]。, ヴァイマル共和政陸軍(Reichsheer)の士官用礼服(奥)と、ナチス・ドイツ陸軍(Heer)の士官用礼服(手前)。, 水兵正式制服。交通整理のため、左右にシャコー帽をかぶった警察官が随行している(1931年ベルリン), ナチス政権下のドイツの軍服は世界的に人気が高く[22]、通常「ドイツ軍服」といった場合はこの時代の軍服を指すことが多い。, 陸軍の将兵の野戦服はフィールドグレーを基調とし、襟のみダークグリーンで、胸と腰の左右に貼り付けポケットが付けられていた。右胸ポケットの上には国家鷲章が付く[23]。肩章で階級が示される。襟章は将官がラーリシュ刺繍(ドイツ語版)というアラビア風唐草模様[24]、非将官はドッペルリッツェン (Doppellitzen) という並行した2本の線のデザインである[25]。一方戦車・装甲車搭乗員は通常の野戦服と全く異なる髑髏の襟章の独特な黒い軍服を着用した[26]。制帽の顎紐は将校が捻り紐(将官は金、非将官は銀)、下士官以下は革だった。制帽は携帯に便利な略帽や規格帽に変えることができた。戦闘用ヘルメットのシュタールヘルム(鉄兜)は一次大戦時のものと似ているが、デザイン的により洗練され、軽量化、耐破片能力向上も図られていた[27]。靴ははじめ全兵に黒革のブーツが支給されており、それがドイツ軍の特徴の一つだったが、第二次世界大戦後期にはブーツが不足し、他国と同じように兵卒は編上靴にゲートルを巻くのが一般的になった[28]。, 陸軍の下士官兵用ベルトバックル。文字は「神は我らと共に (GOTT MIT UNS)」, 海軍の軍服はネイビーブルー(濃紺)を基調とする。軍服に付く国家鷲章は金色である。海軍の軍服は帝政時代からさほど大きな変化はなかった[29]。将校はネクタイ着用の開襟のダブルブレスレッドの軍服を通常勤務服とする。この服は肩章がなく、袖章で階級を識別する。下士官兵は水兵服(セーラー服)を基本とし、必要ならその上からピー・ジャケットや水兵正式制服を着用する[30]。Uボート搭乗員は、比較的自由な服装が許されており[31]、専用の皮コートがあった[32]。海軍陸戦部隊は基本的に陸軍と同じ軍服を着用した[33]。海軍の制帽の顎紐は将校も非将校も皮であるが、鍔の飾りが下士官兵、尉官、佐官、将官で異なる[34]。水兵帽のペンネント(帽子を止めるための長いリボン)には当初は勤務艦名が記されていたが、保安上の理由から後に「Kriegsmarine」(海軍)の表記となった[35]。, 空軍の軍服はブルーグレーを基調とした。空軍の鷲章は陸軍海軍とデザインが異なり、空を飛んでいる躍動感のある鷲のデザインになっている。空軍のもっとも基本的軍服はトゥーフロック(Tuchrock)である。ネクタイ着用の開襟制服で肩章と襟章の両方で階級や兵科色が表示される。将校が使用することが多かった。比翼仕立てのフリーガーブルーゼ(Fliegerbluse)はパイロットが飛行服の下に着た他、下士官兵が通常制服にすることが多かった[36]。将官には特別な席で着用する特別制服(Kleiner Rock für Generale)もあった。パイロットの飛行服は大戦初期はカバーオールの物が支給されていたが、1940年以降はフライト・ジャッケットの着用が一般的になった[37]。降下猟兵は専用の降下用シュタールヘルム、降下用スモック、降下用ズボン、降下用ブーツがあった[38][39]。, 空軍のフリーガーブルーゼ。パイロットが飛行服の下に着たり、下士官兵士が通常制服にした。, ナチス親衛隊の制服はデザインのスマートさからミリタリールックの中でも人気が高い制服である。親衛隊の制服で有名なのは1932年に採用された黒い勤務服である。ネクタイ着用の開襟の制服で肩章は右肩のみに付き、左腕にナチ党旗の腕章を付ける。銀のバッジやモールをあしらった漆黒の制服や制帽の髑髏(トーテンコップ)の徽章は冷酷な威圧感を醸し出している[40]。本部勤務の常勤親衛隊員たちは1938年以降黒服からフィールドグレーの勤務服に変わっていった。基本的に黒服と同型だが、肩章は両肩に付き、左腕の腕章はなくなり、代わりに鷲章が入るようになった[41]。武装親衛隊は陸軍の野戦服と同型の詰襟でも開襟でも着用可能なフィールドグレーの野戦服を着用した。鷲章は右胸ではなく左腕に付いた[42]。戦車装甲車搭乗員も陸軍の物と類似した黒い軍服だったが、陸軍の物との違いとしては襟章が髑髏ではなく、親衛隊の階級章が付き、丈も短く、下襟が小さいために前合わせが垂直になっている点があげられる[43]。武装親衛隊ははじめ迷彩スモック、ついでツーピースの迷彩スーツを採用していた[44]。武装親衛隊は迷彩服の先駆者であると見なされている[45]。, 親衛隊将校のベルトバックル。文字は「忠誠こそ我が名誉(Meine Ehre heißt Treue)」, 突撃隊の制服は褐色シャツ型制服が有名であるが、1932年以降には褐色チュニックが勤務制服として使用されるようになっていた[46]。制帽は褐色シャツも褐色チュニックもケピ帽である。ケピ帽のクラウン部分の色は突撃隊集団色である[47]。SA集団色突撃隊海軍(SA-Marine)や突撃隊防衛団(SA-Wehrmannschaften)などは一般の突撃隊員とかなり異なった独自の制服を着用した[48]。, 第二次大戦後のドイツでは、ドイツ連邦共和国(西ドイツ及び(1990年統一後のドイツ)がドイツ連邦軍の勤務服として立折襟を排して開襟ネクタイ式を採用、生地のグレーも明るめの色にするなどしてナチス時代との差別化を図った。西ドイツの軍服はよくアメリカナイズされたとも言われるが、開襟ネクタイ式はナチス党の制服やドイツ空軍の軍服の系譜でもある[49]。, 一方の東ドイツ(ドイツ民主共和国)の国家人民軍の軍服(1990年の東西統一まで)は当初こそソ連・ロシア式であったが、その後ナチス時代の軍服の伝統を踏襲したデザインが復活し、ナチス軍服の継承者的存在となっていた[49]。それに短剣・サーベル・徽章など、細部にソ連スタイルを取り入れたデザインであった。, 勤務服の上衣は従来の折襟から開襟ネクタイ式に変更、ズボンはナチス時代の長靴に対応した乗馬ズボンタイプのものから、短靴及び編み上げの半長靴に対応したものに変更された。制帽と上衣は明るい灰色、ズボンはそれよりやや濃い目の灰色が用いられる。, 帽章は、X字形に交差したサーベルを柏の葉が囲む意匠が胴部につき、クラウン部には円形章(外側から金・赤・黒の同心円)がつく。尉官制帽の庇には銀色の波模様、佐官制帽の庇には1列の銀の柏葉、将官制帽の庇には2列の金の柏葉が飾られる。[5], 階級は肩章で表されるが、従来のモール編みの肩章が廃されて士官も含めて軟性タイプの肩章(兵科色の縁取りがつく)が用いられるようになった。尉官が四角い銀色ボタンの数、佐官が銀色の半円形の柏葉のリースの上に四角い銀色ボタンの数、将官が金色のリースの上に四角い金色ボタンの数で表される。肩章には兵科色の縁取りがつくが、将官肩章は赤の縁取りの内側に金モールの縁取りが加わる。, 襟章は従来のものがほぼ踏襲されたが、平行四辺形から長方形に変更。折襟から開襟ネクタイ式への変更に対応したものと思われる。, 帽章は、錨を柏の葉が囲む意匠が胴部につき、クラウン部には円形章がつく。兵士は水兵帽のクラウン部に円形章のみがつく。尉官制帽の庇には金色の波模様、佐官制帽の庇には1列の金の柏葉、将官制帽の庇には2列の金の柏葉が飾られる。[6], 階級は兵・下士官が上腕部の臂章で、将校が袖口の金線で表される。従来将校の上衣に併用されていた、陸軍に準じた肩章は廃され、他の多くの国で用いられている例に準じて、黒地に袖口の階級章と同じ金線を配した肩章が夏服・コート・セーターに用いられるようになった。, ナチス時代から開襟ネクタイ式の上衣が導入されていたことも手伝い、制服制帽の仕立て・配色等は3軍中従来からの連続性が最も強い。ただズボンは従来の乗馬ズボンタイプから、短靴の使用を念頭に置いた仕立てになっている。, 帽章は、翼を柏の葉が囲む意匠が胴部につき、クラウン部には円形章がつく。尉官制帽の庇には銀色の波模様、佐官制帽の庇には1列の銀の柏葉、将官制帽の庇には2列の金の柏葉が飾られる。[7], 襟章は兵科色の長方形の台布に、兵・下士官が銀色の飛ぶ鳥の意匠、尉官が半円形の柏葉のリースの上に飛ぶ鳥の意匠、佐官が長円形の柏葉のリースの内側に飛ぶ鳥の意匠を配したものがもちいられる。第三帝国時代に用いられた襟章と類似しているが、階級ごとに飛ぶ鳥の意匠の数が変化して「階級章」の機能を果たすことはない。また将官襟章には陸軍将官と同じものが用いられる。, 国家人民軍創設初期の制服。ヴィルヘルム・ピーク大統領と握手するヴィンツェンツ・ミュラー国防次官兼参謀総長(中将)。右端は国防相ヴィリー・シュトフ大将(1957年), 「ツバメの巣」(Schwalbennester)と呼ばれるプロイセン以来の肩飾りをつけた軍楽隊, 閲兵するエーリッヒ・ホーネッカーSED書記長とカール=ハインツ・ホフマン国防相(1972年), 勤務服を着用した空軍の将校達(左から二人目はソ連空軍将校)。演壇に立つのはジークムント・イェーン。, ベルリン・ブランデンブルク門の開放に備えて待機する人民警察官。1989年12月22日。, 地上軍では戦後しばらく、ソ連・ロシア式の詰襟・大型肩章デザインの軍服を経て、ヴァイマル~ナチス時代を踏襲する折襟軍服が将校・下士官兵ともに使用されていた。幾度のマイナーチェンジを繰り返し、1970年頃より、将校は4つボタンの開襟軍服と、親衛隊の軍服を踏襲したようなデザインとなった。下士官兵は、多少デザインが変更された5つボタンの折襟であったが、70年代後半より、4つボタンでネクタイを締めることが主であった。帽章は国家章をオークの葉で囲ったもの。, 戦闘服については「フィヨルドパターン」と呼ばれる4色迷彩と、1960年代より登場して主流となった「レインドロップパターン」と呼ばれる、黄土色を基調とし、縦に茶色の点線が入った迷彩の2種類が採用されていた。後者は少し離れてみると点線が目立たなくなり、結局ただの単色布地に見えることから、「アインシュトリッヒ・カインシュトリッヒ」(Ein Strich - kein Strich、「線が一本・線が無い」程度の意)と俗称された。初期型の戦闘服は胸ポケットが2つのみだったが、後期型では切り込み型の腰ポケットと、袖の上腕に小ポケットと包帯包を取り付けるためのループが追加された。