栃木県:歴史・観光・見所(ホーム)>日光東照宮(栃木県・日光市) 【 菩提者 】 徳川家康は元和2年(1616)1月21日、鷹狩りの最中に倒れ、すぐさま近くにあった田中城(静岡県藤枝市)に運ばれ養生 … 日光東照宮は、日光霊峰の山懐聖地恒例山にあり、中禅寺湖から流れる大谷川と女峰山から流れる稲荷川との河合いの山岳水明の地に鎮座します。神域は、樹齢400~800年神杉につつまれ、その中に点在する社殿群は自然環境と見事に融合する宗教的文化空間です。 時代を超えて多くの偉人達に影響を与え、後世に語り継がれてきた楠木正成は、歴女にとって興味深い存在です。地元では「楠公さん」(なんこうさん)の愛称で親しまれている湊川神社が、どのような歴史的背景で創建されたのか、見どころと合わせてご紹介します。, 「甲斐の虎」(かいのとら)の異名を持ち、勇猛果敢な騎馬隊を率いて「徳川家康」や「上杉謙信」にも怖れられた戦国時代きっての名将「武田信玄」。恰幅のいい肖像画が有名で、猛々しく戦うイメージが強い一方、法律の制定や当時としては珍しい合議制政治の導入など、内政においても手腕を発揮したことで知られ、高い人気を誇る武将です。
今回は、激動の幕末を駆け抜けた偉大な思想家「吉田松陰」(よしだしょういん)と共に、吉田松陰を祭神とする2つの「松陰神社」(しょういんじんじゃ)についてご紹介します。, 2017年(平成29年)に、「続日本100名城」にも選ばれた山形県の米沢城跡。桜の名所としても知られる城跡には、熱狂的な歴女ファンが多い「上杉謙信」(うえすぎけんしん)を祭神として祭る「上杉神社」が鎮座しています。
そんな武田信玄を祭神として祀る「武田神社」は、武田信玄が本拠地とした山梨県甲府市に鎮座しています。, 「伊達政宗」(だてまさむね)と言えば、独眼竜の異名で知られる戦国時代の大名です。戦国の世に名を馳せ、「豊臣秀吉」や「徳川家康」に仕えながら東北の覇者となったことで知られる伊達政宗は、戦国武将としてのたくましさに加え、隻眼というミステリアスな風貌を併せ持っていたことから、現代でも絶大な人気を誇っています。伊達政宗は、近年の歴女ブームを牽引する中心的人物と言っても過言ではありません。そんな伊達政宗ゆかりの地として名高い宮城県仙台市は、伊達政宗にまつわる神社仏閣が多く存在します。, 「前田利家」は、「織田信長」や「豊臣秀吉」のもとで武功を挙げ、戦国の世にその名を轟かせた名将です。当時では珍しい182cmの高身長で容姿端麗だったと言われている前田利家は、歴女人気が高い武将のひとり。また、前田利家が女性ファンの心を掴む理由に、正室「芳春院」(ほうしゅんいん)こと通称「まつ」との夫婦愛も挙げられます。
ですから日光東照宮との関係の始まりは、家康が子孫を見守りたいと思うが故の遺言から始まった事になります。 . 「本能寺の変」によって志半ばでこの世を去った織田信長ですが、その亡骸が見付からなかったことから、織田信長の墓は各地に存在。明治になると、政府によって織田信長を祀る「建織田社」(たけしおりたのやしろ)が建立され、のちに「建勲神社」(たけいさおじんじゃ)の社号が下賜されました。, 愛知県名古屋市中村区にある「豊國神社」(豊国神社)は、農民の家に生まれながら数々の功績を挙げ、ついには天下人にまで登りつめた三英傑のひとり「豊臣秀吉」を主祭神とする神社。豊臣秀吉は、当時としては珍しく「寧々」(ねね)と恋愛結婚をしたことや、織田信長の姪で浅井長政の娘「茶々」(ちゃちゃ:淀殿[よどどの])を側室として迎え入れたことなど、女性関係の逸話が多いことでも有名です。
なぜ日光と徳川家康があるのかは先程述べた通りですが、それ以外にもゆかりとなるものはあるようです。 もともと徳川家康はここ久能山東照宮に葬られていましたが、家康の孫である三代将軍・家光の意向で、家康の遺骨を日光東照宮に移しました。久能山東照宮から日光東照宮を結ぶと、その途中のライン上に富士山が位置します。 東照宮は、日本史上最大の英雄の1人である徳川家康の墓所であり、日本の歴史・文化が形作られるなかで、非常に大きな役割を果たしてきました。 本記事では、東照宮にまつわる歴史・見どころをご紹介します。 戦国時代の三傑(織田信長・豊臣秀吉・徳川家康)の中の一人、徳川家康が死んだ後、誰が、何故「東照大権現」と神号を付けられたのでしょうか。 「太陽が昇る東(江戸)の方角から、日本を照らす神」という意味を成す「東照大権現(薬師寺如来)」として、第108代天皇の「後水尾天皇」から宣下されたものなんです。 その際、「東照大権現(徳川家康)」に対して「正一位」を贈位されています。 これには、初代征夷大 … 子供も多いですよね。 . 江戸幕府を開いた徳川家康とくがわいえやすがこの世を去って約400年の月日が流れました。 江戸幕府は264年もの長い間続き、その後、明治、大正、昭和と年号を変え現代の平成に至っています。 徳川家康はこの間も、子孫や関八州などを見守ってきたと思われます。 建立したものです。 日光東照宮は、日本の平和を祈って、徳川家康が. 日光東照宮は観光地ですから、行ったことがある. 徳川家康は、1616年(元和2年)に亡くなる前に、「遺体は駿河の久能山に葬り、一周忌を過ぎたら下野の日光山に小堂を建てて勧請せよ」と遺言しました。 徳川家康のお墓は、日光東照宮の奥社(奥宮)にあります。 眠り猫の下を通って坂下門をくぐり、石畳と階段の廻廊を抜けると奥社にたどり着きます。 階段の傾斜が急なので、お年寄りや子供には少し厳しい道のりかもしれません。 ・日光東照宮には徳川家康公がお祀りされている。 ・日光東照宮の創建時代は1617年4月17日だ。 ・創建の起源は家康公の遺言により、栃木県日光市に改葬されたからである。 ・家康公のご遺体は日光東照宮内の、奥宮宝塔の下で眠っていると伝わっている。 他にはこんな記事も読まれています。 関連:【日光東照宮】鳴き龍の仕組みと歴史は?作者や絵の意味も詳しく解説 関連:日光東照宮の眠り猫の意味や場所はどこ?裏側に鳥(雀)がいる理由についても 関連:日光東照宮の五重塔の高さや大きさは?十 … 兵庫県神戸市にある「湊川神社」(みなとがわじんじゃ)は、鎌倉幕府を滅亡させ、「後醍醐天皇」(ごだいごてんのう)に忠義を尽くして戦い果てた武将、「楠木正成」(くすのきまさしげ)を祀った神社です。南北朝時代を代表する英雄として語られることの多い彼は、猛将でありながら戦術家としても名高く、「南北朝一の知将」とも称されてきました。
東照宮は、江戸幕府初代将軍の徳川家康を祀った神社です。 1616年(元和2年)4月、家康が現在の駿府城(現在の静岡市)において75歳で亡くなります。 今回は、豊臣秀吉ゆかりの豊國神社(豊国神社)と、「加藤清正」を祀る熊本県熊本市「加藤神社」の意外な関係、そしてご縁を結びたい歴女必見!「常泉寺」(じょうせんじ)の「むすびの輪」などをご紹介します。. 日光は奈良時代の766年に勝道上人が訪れ、開山されました。日光連山の霊山と言われている「男体山」からは、男性的な力強いエネルギーを、「女峰山」からは 女性的な柔らかで優しさに包まれたエネルギーを受けていると言われています。 勝道上人は、そういった神聖な土地である大谷川の北岸に二荒山大神をまつり、山岳信仰の聖地として開山しました。江戸初期に徳川家康の霊を祀る東照宮が建てられるまでは、山岳信仰の聖地として山に伏して修行する山伏が多く訪れていたそうです。 山岳信仰が盛 … 徳川家康の墓所 奥社宝塔. 対して親しみを持つのではないでしょうか。 . 「応仁の乱」(おうにんのらん)から始まった戦国時代に終止符を打ち、徳川幕府の初代将軍として約260年に及ぶ江戸時代の礎を築いた「徳川家康」。「織田信長」、「豊臣秀吉」と並ぶ「戦国三英傑」と称され、三河国(みかわのくに:現在の愛知県東部)の小大名から天下人となった武勇や知略で、歴女のみならず高い人気を有する武将です。
太田市世良田には、「お江戸見たけりゃ世良田にござれ」と謳われたほどの『世良田東照宮』があります。 徳川家康を祀った東照宮は、日光、久能山、仙波(川越)の日本三大東照宮を始めとして現在約130社ありますが、その中でも地方都市でありながら、それなりの格式と由来を持っているのが、この『世良田東照宮』です。 そもそも『世良田東照宮』は、黒衣の宰相天海僧正の発願により日光東照宮から勧請された神社です。 日光東照宮は、家康の死後2代将軍秀忠によって創建され、3代将軍家光によ … 戦国時代に越後国(えちごのくに:現在の新潟県)を統一し、米沢藩上杉家の礎を築いた上杉謙信。「軍神」と称され、「義」を重んじる名将として語られてきました。
日光 東照宮 表門 獅子 [108360501] の写真・イラスト素材は、徳川氏、日光の社寺、表門などのキーワードが含まれる画像素材です。この素材の料金は385円~3,850円となっております。無料の会員登録でサンプルデータのダウンロードやキープなど便利な機能をご利用いただけます。 766年、奈良時代の僧侶・勝道(しょうどう)上人が日光を開山し、現在も日光東照宮に隣接する輪王寺を創建。 歴史メディアRinto » 日本の歴史 » 日光東照宮とは?徳川家康を祀る神社の歴史と見どころをわかりやすく解説, 日光東照宮とは栃木県日光市にある神社。主祭神として祀られているのは、江戸幕府を築いた将軍・徳川家康です。なぜ徳川家康を日光に?どうして日本屈指の観光スポットになったのか?神社に家康のお墓があるの?等々、いろいろ疑問がわいてきますね。まずは日光東照宮創建までの歴史について見ていきましょう。, 周囲には男体山や女峰山など日光連山と呼ばれる山々が連なり、日光は奈良時代から山岳信仰の聖地として知られていました。, 766年、奈良時代の僧侶・勝道(しょうどう)上人が日光を開山し、現在も日光東照宮に隣接する輪王寺を創建。鎌倉時代には源頼朝からも厚く信仰されており、以後、日光は関東地方の修験場・霊場として多くの人々から尊崇されていきます。, 「日光」の名前の由来は、男体山の古い呼び名と言われている「二荒山(ふたあらやま・ふたらさん)」を「にこう」と呼んだところからきているのだそうです。, 日光東照宮が建てられる前の日光は、険しい山々に入り修行を行う霊場として多くの僧坊が集まり、賑わいを見せていました。, しかし、豊臣秀吉による小田原征伐の後、北条氏に味方した等の理由で、一時期、日光は世間から忘れ去られた存在になってしまいます。, 亡くなる前、家康は自分の埋葬について「駿河の久能山に葬り、増上寺で葬儀を行い、三河国の大樹寺に位牌を納めて、1年経ったら日光山に小堂を建てて勧請(かんじょう・神仏の来臨を請うこと)するように」と言い残しています。, その言葉に従い、家康の死後、遺体はすぐに駿河国の久能山(くのうざん)に埋葬されました。, この地には飛鳥時代創建と伝わる久能寺があり、小高い山の上には武田信玄が築いたとされる山城も残されていました。武田滅亡の後は徳川家康が治めることとなり、以後、久能山は駿府の防衛拠点のひとつとして重要視されてきた、家康に縁のある土地なのです。, 家康を埋葬するにあたり、まず1616年に久能山東照宮の建設が始まります。主祭神はもちろん、徳川家康です。, せっかく築いた久能山東照宮ですが、創建まもなく、家康の遺言どおり、家康の一周忌にあわせて日光へ改装されることになります。, 二代将軍であり家康の息子にあたる徳川秀忠の命により建立された当時の日光東照宮の社殿は簡素でシンプル。まだ現在のような豪華なものではなかったのだそうです。, 【戦国の勝利者】徳川家康の歴史と共に7つの関連史跡もご紹介! – Rinto~凛と~, 真面目な性格とその地味さがかえって光る「徳川秀忠」偉大なる父の影でどんな人生を送った? – Rinto~凛と~, 1632年(寛永9年)、二代将軍徳川秀忠がこの世を去ると、徳川家光が三代将軍となります。家康の孫にあたる人です。, 家光は戦国時代の動乱を知らずに生まれ育った将軍。祖父・家康を尊敬し、神のように崇めていたと伝わっています。, そこで家光は、家康の二十一回忌の法要を前に日光を訪れ、日光東照宮の大改修を行うことを決めたのです。, 寛永の大造替によって、日光東照宮は豪華で荘厳な社殿へと生まれ変わりました。日本全国から宮大工たちが集められ、改修は2年足らずという短期間の間に急ピッチで行われたと伝わっています。, この大改修は、家康信仰だけでなく、徳川幕府の威光を示すものにもなりました。以後200年余りの間、徳川幕府は繁栄し続けたのです。, ところで、「東照宮」と名の付く神社は、日光や久能山だけでなく、全国各地に数多く存在しています。東照宮とは徳川家康を祀る神社のこと。日光東照宮はその総本宮であり、正式には単に「東照宮」という名前なのですが、他の東照宮と区別つけやすいように「日光東照宮」と呼ばれているのです。, 生まれながらの将軍「徳川家光」親の愛に飢えて大奥創設のきっかけとなる? – Rinto~凛と~, 三河国は家康の祖・松平家ゆかりの国。駿河は幼少期を過ごした地でもありますが、ではなぜ日光に?理由はいくつかあるようですが、やはり源頼朝の存在が大きかったようです。, 頼朝が寄進し珍重していた日光権現。頼朝を尊敬していた家康が、衰退してしまった日光を再建したいと考えていたとしても不思議はありません。, 家康が日光を選んだ理由としてもうひとつ、日光という土地の位置が大きく関係しているという説をご存じでしょうか。, 日光は江戸城から見て、ほぼ真北に位置しています。これが北極星信仰に通じるのでは、と考えられているのです。, 北極星とは、地球の地軸の延長線上にあるため、地上から天体を眺めた時、他の星が北極星を中心に回っているように見えます。北極星の位置は変わらないため、この星は古くから信仰の対象となっていたのです。家康はこのことを意識して、日光の地を選んだのでは、といわれています。, 遺言で「関八州(相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野の関東8か国の総称)の鎮守となろう」と続けた徳川家康。日光と不動の北辰・北極星を重ね合わせ、自ら守護となることを望んだ徳川家康。関東および江戸の町の安泰が続くことを願ったのかもしれません。, 江戸幕府を開き日本に泰平の世をもたらした英雄・徳川家康。その存在は、孫の徳川家光に尊敬されるだけでなく、全国に「東照宮」という名の付く神社が建立されるほど尊崇されてきました。大改修を終えて荘厳な神社へと生まれ変わった日光東照宮とはどんな場所なのでしょうか。次に、日本屈指のパワースポットとしても人気の高い日光東照宮の見どころについてご紹介いたします。, 歴史と地形と猫と高層建造物が大好きな東京在住の主婦。趣味は地図を眺めることと街歩き。新たな知識と発見を求め、今日も二次元と三次元の世界を彷徨います。, 江戸時代異国に開かれた数少ない窓だった長崎の「出島」ー元予備校講師がわかりやすく解説, 日本を代表する世界遺産と聞かれたら……「日光東照宮」の名前を挙げる方も多いのではないでしょうか。日本のユネスコ世界遺産としては8番目、1999年に登録された日光東照宮。日本人のみならず外国人にも人気の観光スポットとなっています。そんな日光東照宮、いったいどんな神社なのでしょう?いつ頃からある?有名なのに、歴史や由来など詳しいことはあまり知らない……。もしかしたら外国人観光客のほうが詳しいかも?なんてことにならないよう、今回の記事では、. 日光にある徳川家康の遺愛品. 「東照宮 徳川家康墓」と刻まれる墓は、昭和42年(1967)に水戸徳川家の家老を先祖に持つ三木啓次郎氏が、パナソニック創業者の松下幸之助氏らの援助を受けて建立したものである。 Copyright © 土地活用の東建コーポレーション ALL RIGHTS RESERVED. 日光東照宮は、戦乱の世を治め、260年以上にわたる江戸幕府を開いた戦国時代の武将 徳川家康を神として祀るために創建された神社です 駿府城 徳川家康像 徳川家康と言えば 織田信長、豊臣秀吉とともに 天下統一の為に尽力した『三英傑』に数えられる人物の1人 幼少期には織田家や今川家の人質となり、過酷でつらい経験をしますが 豊臣秀吉亡き後、対抗勢力であった石田三成の軍を撃破(関ヶ原の戦い)したことでついに天下統 … 「織田がつき 羽柴がこねし 天下餅 座して食らうは 徳の川」と、徳川家康の天下取りを揶揄した狂歌もありますが、幼少期には織田家、その後19歳まで今川家の人質として過ごし、戦国大名となってからも領内の平定や隣国の脅威など、苦労を乗り越えて上り詰めていきました。そして、死後は「東照大権現」(とうしょうだいごんげん)の神号を授けられ、絢爛豪華な「日光東照宮」(にっこうとうしょうぐう)に祀られています。, 「華厳の滝」(けごんのたき)のある「中禅寺湖」(ちゅうぜんじこ)や奥日光など、豊かな自然が広がり、日光山内をはじめとした恵まれた観光資源があることから、日光は歴女はもちろん、海外でも観光スポットとして知られています。, 明治時代に外国人向けの旅館がオープンすると、西洋料理店やベーカリーなどもでき、国際的な避暑地となりました。, その中心となる「日光東照宮」と「日光山輪王寺」(にっこうさんりんのうじ)、「二荒山神社」(ふたらさんじんじゃ)を合わせた二社一寺は、周辺の山林と合わせて世界遺産に登録され、近年では海外からの観光客も増加。2017年(平成29年)の日光市の外国人宿泊者数は、10万人を超えています。, 歴女にも人気の日光東照宮が鎮座する日光の歴史は、奈良時代の「勝道上人」(しょうどうしょうにん)による開山にはじまります。日光連山のひとつ「二荒山」(ふたらさん)に登り、中禅寺湖畔に神宮寺を建立しました。, 「日光」という名前は、二荒山が音読みの「にっこうさん」に転じたとされています。以来、有数の山岳信仰の霊場として栄え、鎌倉時代には500以上の寺院が立ち並びました。, ところが、戦国時代に日光の社寺は北条氏に与したため、「豊臣秀吉」に所領の大部分を没収されてしまいます。その後しばらく衰微の時代が続きますが、「徳川家康」が自分の亡骸を日光に祀るように遺言したことで、再び脚光を浴びることになったのです。, 徳川家康は、1616年(元和2年)に亡くなる前に、「遺体は駿河の久能山に葬り、一周忌を過ぎたら下野の日光山に小堂を建てて勧請せよ」と遺言しました。, 日光は、江戸から見て真北にあり、不動の北辰(北極星)の位置から幕府と日本の恒久平和を守ろうとしたと伝えられています。, 翌年、遺言に基づいた2代将軍「徳川秀忠」(とくがわひでただ)が日光東照宮を創建しましたが、当時の日光東照宮は簡素な造りでした。, 歴女にも人気のある今日のような絢爛豪華な姿になったのは、3代将軍「徳川家光」(とくがわいえみつ)が、1634年(寛永11年)から1636年(寛永13年)の21年神忌に向けて、大規模な造替を行なったことによります。, 徳川家光は、祖父・徳川家康によって徳川秀忠の後継者に指名されたとされています。そのため徳川家康を敬愛。このときの大造営は、約1年5ヵ月の工期で延べ168万人もの大工が動員され、総工費にして金56万8,000両・銀100貫匁・米1,000石、現在の貨幣価値で200億円とも400億円とも伝えられる巨額が投じられたのです。, 特に「陽明門」や社殿などの彫刻は、江戸だけでなく京都や大坂からも宮大工が呼ばれ、江戸時代初期における匠の技の粋を集めて施されました。その素晴らしさは、「日光を見ずして結構と言うなかれ」という格言があるほど。, 徳川家光は、日光東照宮に10回も参拝し、その後、将軍家が日光に大行列を従えて詣でる「日光社参」(にっこうしゃさん)が行なわれるようになりました。, 全面に龍や唐獅子などの神獣や、鯉や鳥、牡丹などの動植物、中国の偉人など500余りもの彫刻が施され、彩色、飾り金具など、華麗な装飾のあまりの美しさに、日が暮れるのも忘れて見惚れてしまうことから、「日暮門」(ひぐらしのもん)とも呼ばれています。, 2017年(平成29年)には、今後100年はないとされる約4年に亘る大修繕を終え、建設当時と変わらぬ輝きを取り戻したことで、さらに歴女人気が高まりました。, またこの陽明門には、「グリ紋」という渦巻き模様が施された12本の柱があるのですが、1本だけ逆さになっています。これは「魔除けの逆柱」と呼ばれ、「満つれば欠ける、世の習い」のことわざから、未完成であることを表現。陽明門がいつまでも残るように願ってあえてそうしていると伝えられています。訪れた際に、自分の目で探し当てるのも歴女らしい楽しみ方です。, 本殿の正面には、もうひとつ注目しておくべき門があります。それが四方へ葺かれた唐破風の屋根が目をひく唐門です。, 唐門は桁行3m、梁間2m弱と、それほど大きな門ではありませんが、陽明門よりも多い611体もの緻密な彫刻が施されており、特に屋根の下にある寄木細工の昇り龍と降り龍や、正面上部の「舜帝朝見の儀」(しゅんていちょうけんのぎ)などが見どころ。, かつては勅使や大名、旗本など、将軍に謁見できる身分の者だけが通ることが許されたと言われる門。現在も、正月や大祭などのときと国賓相当の人が参拝するときのみ開放され、通常は閉ざされています。, 日光東照宮を中心とした日光は、社寺全体が大きなパワースポット。歴女だけでなく、女性人気の高いスポットです。なかでも、特に強いパワーがあるとされるポイントがあります。, ひとつ目は、「北辰の道の起点」(ほくしんのみちのきてん)。古代中国の思想で、不動の北極星は宇宙の中心である天帝に例えられ、日本でも陰陽道などにおいて、大きな力を持つと考えられました。, 「北辰の道」とは、北極星へ向かう道という意味で、江戸から日光を通って北極星を結ぶラインのこと。奥宮から本殿、陽明門を通り、南の江戸へパワーが集結するのが北辰の道の起点とされるポイントで、二の鳥居である唐銅鳥居と御水舎の間、唐銅鳥居の中に陽明門がすっぽり収まって観えるあたりと言われています。知らずに通り過ぎてしまいそうですが、せっかくなら、ちょっと立ち止まって観たいところです。, 2つ目は、東照大権現の霊廟、つまり徳川家康のお墓がある「奥宮」(おくみや)というエリア。本殿の裏側にあり、日光東照宮のパワーの源とされています。, 唐門や拝殿を正面にみて右手側、眠り猫のある東廻廊の坂下門を通って207段の石段を登った先にあるのが、拝殿・鋳抜門・宝塔。この奥宮へ続く道も、龍道というパワーの通り道です。, そして、金・銀・銅の合金で制作された宝塔が徳川家康のお墓で、周囲をぐるりと回ることができます。宝塔の前には鶴と亀の像があるのですが、童謡「かごめかごめ」に出てくる鶴と亀はこれを表しているという説があり、徳川の末永い治世を祈るものだとか、埋蔵金のありかを暗示しているという都市伝説もあるので、こうした様々な伝説を検証してみるのも楽しいかもしれません。, 脇には、樹齢約600年の「叶杉」(かなえすぎ)があり、ほこらに向かって諸々の願い事を唱えると、願い事が叶うと伝えられています。こちらでは御霊分けとして「叶鈴」(かなえすず)のお守りも授与して頂けるので、歴女ならずとも要チェックです。, 3つ目が、「上神道」(かみしんみち)。日光東照宮の表門を出て五重塔の手前を右に行く、二荒山神社へ続く参道で、ここも龍道とされています。日光東照宮から二荒山神社へ向かって歩くとよりパワーをもらえるとされており、日光山内を巡る際には、輪王寺から日光東照宮、二荒山神社という順番がおすすめです。, 「日光東照宮宝物館」では、徳川家康の遺愛品の他にも、朝廷や将軍家、大名家からの奉納品、祭祀具などを展示公開しています。, 徳川家康が「関ヶ原の戦い」で着用したとされ、国の重要文化財に指定されている「南蛮胴具足」(なんばんどうぐそく)や、「勝光宗光」(かつみつむねみつ)などの刀剣の他、国宝に指定されている儀式用の大工道具、江戸時代初期の日本画家「狩野探幽」(かのうたんゆう)が徳川家康の生涯を描いた「東照宮縁起」など、貴重な品々を観ることができます。, さらに、陽明門を細密に記録して、建設当初の姿や修復の過程をCGで描いたバーチャルリアリティ映像や、幼年期・青年期を中心に徳川家康の生涯を描いたアニメーションなどが観られる東照宮シアターもあり、徳川家康や日光東照宮についてより深く理解することが可能。歴女の「徳川ざんまい」にはぴったりの場所だと言えます。, また、「日光東照宮美術館」では、「横山大観」(よこやまたいかん)が手がけた「朝陽之図」(ちょうようのず)や「堅山南風」(かたやまなんぷう)の「鯉と額紫陽花」(こいとがくあじさい)など、100点余りの日本画を収蔵・展示。旧社務所を再利用した杉並木の古材を利用した昭和初期の近代和風建築で、歴女好みの建物です。, 日光東照宮をはじめ、山内の二社一寺では、120を超える年中行事が開催されます。なかでも、5月17・18日に日光東照宮で行なわれる春季例大祭は特に盛大。17日には石鳥居手前の山内表参道の特別馬場で、小笠原流の「神事流鏑馬」(しんじやぶさめ)が奉納されます。, 馬を駆って馬上から矢を射る様子は、勇壮で迫力満点。写真撮影も可能ですが、フラッシュ撮影などは馬が興奮してしまうおそれがあるため、配慮が必要です。, 翌18日の午前11時からは、例大祭のハイライトと言える「百物揃千人武者行列」(ひゃくものぞろいせんにんむしゃぎょうれつ)を奉納。徳川家康が最初に埋葬された久能山(くのうざん)から、日光へ改葬されたときの行列を再現した行事で、三基の神輿と華やかな装束姿の武者が約1kmもの隊列を組んで境内の御旅所へ練り歩きます。鎧武者など1,200人ほどの絢爛豪華な大行列は、一見の価値あり。, 10月16・17日の秋季例大祭でも、流鏑馬や千人行列などが行なわれます。歴女でなくとも、江戸時代にタイムスリップした気分に浸ることができそうです。, 日光山は元々、神仏一体(神仏習合)とされていましたが、明治維新以降の神仏分離によって二社一寺に分かれることになり、輪王寺、日光東照宮以外の神道建築物を総称して二荒山神社と呼ぶようになりました。, 日光山輪王寺は、766年(天平神護2年)、勝道上人が建立したことに始まり、平安時代には征夷大将軍「坂上田村麻呂」(さかのうえのたむらまろ)や「弘法大師空海」(こうぼうだいしくうかい)が来山、鎌倉時代には「源頼朝」からも信仰された名刹です。, 江戸時代には、徳川家康の側近「天海大僧正」(てんかいだいそうじょう)や、3代将軍・徳川家光の庇護を受けて発展。, 日光山輪王寺の本尊である阿弥陀如来、千手観音、馬頭観音の仏像を収める三仏堂と、内部に1,000部に及ぶ経典が収められ、日光東照宮の鬼門除けとして建てられた高さ13.2mの相輪橖(そうりんとう:仏塔の一種)は、いずれも徳川家光によって再建・建立されました。, 二荒山神社も、勝道上人が開いた山岳信仰の霊場。下野国一之宮として信仰を集めました。鎌倉時代には、熊野三山信仰が導入され、日光連山のうち男体山、女峰山、太郎山を日光三山として、それぞれに新宮権現、滝尾権現、本宮権現の三社が祭祀されたのです。, 日光東照宮の西に位置する本社・社殿は、1619年(元和5年)に2代将軍・徳川秀忠によって造営され、日光山内に残る建物の中で最古。徳川家光が建てた日光東照宮のような絢爛豪華な造りではありませんが、神社の境内らしい清々しく厳かな雰囲気が漂う神社です。, 歴女として見逃せないのが、「二荒霊泉」(ふたられいせん)です。神苑の奥の一角にある霊験あらたかな湧き水を集めた池で、眼病や若返りにご利益があるとされ、隣接するおやすみ処では二荒霊泉の水を使った抹茶やコーヒーを飲むことができる他、霊水を持ち帰るための容器も販売しています。, 日光東照宮からみて二荒山神社のさらに奥にあるのが、徳川家光が眠る「輪王寺大猷院」(りんのうじたいゆういん)。, 黒と金を基調とした重厚な雰囲気の霊廟で、「家光の死後も東照大権現にお仕えする」という遺言を受けて造られました。, 規模も装飾も華美な物ではありませんが、細部にいたるまで職人の技術を凝らした装飾や彫刻を観ることができます。, 日光ではJR日光駅、東武日光駅から、日光東照宮やその他の社寺をめぐるバスに自由に乗り降りできるフリーパスを販売。上手に活用して、世界遺産・日光を満喫するのが歴女のたしなみかもしれません。, 刀剣の専門サイト・バーチャル刀剣博物館「刀剣ワールド」の制作は、東建コーポレーション株式会社と一般財団法人 刀剣ワールド財団、株式会社東通エィジェンシーの共同制作です。. ここでは、上杉謙信ゆかりの聖地であり、米沢市の観光名所でもある上杉神社についてご紹介します。, 尾張の守護代だった織田氏の一族に生まれ、「天下布武」の旗印のもと天下統一を目指してまい進した「織田信長」。織田信長は苛烈な性格で知られていますが、戦においても政治においても、既存の価値観にとらわれない革新的な考えの持ち主でもありました。ドラマチックな生涯とも相まって、歴女にも人気が高い戦国武将です。
徳川家康のお墓がどこにあるか、ご存知でしょうか。「日光東照宮」と答える人もいるでしょう。しかし、それが真実なのかは、まだ解明されていません。本記事では、全国にある徳川家康のお墓について、いまでも解明されない謎を含めてご紹介します。 また「清和源氏」(せいわげんじ)を祖とする名門「甲斐源氏」の流れをくみ、鎌倉幕府を開いた「源頼朝」(みなもとのよりとも)や室町幕府の足利将軍家とも血縁関係にあったこと、さらには「川中島の戦い」で鎬を削った上杉謙信とのライバル関係など、物語性の高い武将であることも歴女心をくすぐるところ。
日光は栃木県の北西部に位置しています。 周囲には男体山や女峰山など日光連山と呼ばれる山々が連なり、日光は奈良時代から山岳信仰の聖地として知られていました。. 2002年(平成14年)には、大河ドラマでも2人の夫婦愛が描かれたことから、共に認知度が高くなりました。そして、加賀藩祖として前田利家が礎を築いた石川県金沢市には、前田利家とまつを祭神として祀る「尾山神社」(おやまじんじゃ)があります。, 数多くの戦国武将が活躍した戦国時代。そして、新しい時代に向けて多くの志士が歴史に名を残した幕末。大きな転換期となったこの2つの時代は、日本史のなかでも圧倒的な熱情と輝きを放っています。昨今の歴女ブームを語る上でも、戦国武将と幕末維新の志士達は欠かせない存在。
徳川家康死後一年の1617年(元和3年)4月15日、徳川家康の遺言により久能山からご遺体が日光に神として移されました。正遷宮は、同年4月17日二代将軍秀忠をはじめ公武参列のもと厳粛に行われ、東照社として鎮座しました。遺言通り質素に作られました。 1634年(寛永11年)の9月頃、3代将軍、徳川家光が日光東照宮を参拝し、大規模改築(寛永の大造替)が、1636年(寛永13年)の21年神忌に向けて着手されました。 二代将軍徳川秀忠は、家康の遺言通りに日光に日光東照宮建てました。が、1643年(寛永… そこで、その点を絡めて説明すると、徳川家康に. 日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)は、日本の関東地方北部、栃木県日光市に所在する神社。江戸幕府初代将軍・徳川家康を神格化した東照大権現(とうしょうだいごんげん)を主祭神として祀る。日本全国の東照宮の総本社的存在である。また久能山東照宮・上野東照宮と共に三大東照宮の一つに数えられることが多い。正式名称は地名等を冠称しない「東照宮」であるが、東照宮の公式サイトがホームページに「日光東照宮」と掲げており 、他の東照宮との区別のために「日光東照宮」と呼ばれるこ … 江戸幕府を開いた徳川家康は現在、栃木県の日光東照宮に祀られていますが、墓でもあります。ただし、亡くなったのは駿府城(現静岡県静岡市)で、当初は駿河国(現静岡県中部)にある久能山に葬るようにと遺言をしました。日光東照宮に墓もあるということは、 日光東照宮は 元和3年(1617)徳川初代将軍徳川家康公をご祭神(日光山東照大権現)としておまつりした社です。 現在の社殿群は、 そのほとんどがご鎮座から20年後の寛永 (かんえい)13年(1636)に建て替えられたものです。 歴史が秘めた意外な物語を、わかりやすく感動的に描く「歴史 ... ~日光東照宮 徳川家康 ... 『徳川家光公伝』(日光東照宮社務所・非売品) 都心からもアクセスの良い栃木県日光市の「日光東照宮」。徳川家康を神格化した東照大権現を祀り、世界文化遺産にも登録されている名高いパワースポットです。「三猿」や「眠り猫」などの見どころ、お土産、周辺グルメなどをご紹介。