午後零時三十分に噴火。鹿児島市では轟然たる爆発音が強く、山麓には焼石が落ちて一面に煙が立った。小林では大鳴動し、家屋・建物は揺れ動き黒煙は激しく、全村を暗くし灰煙を降らした。山の麓では焼石が落下したため家屋二十二軒が出火した。[明治二十八年十月十七日鹿児島新聞], 爆発口である御鉢の付近二・三丁のあたりで、この噴火に遭遇した三人連れの男および一名の老女は、いずれも落ちてきた石に打たれて惨死した。爆発の当日、鹿児島では強大な爆発音を聞いたが、霧島の麓(鹿児島県方面だろう)はこれに反して、少しも震動の音を聞かなかった。ただガチガチという奇異な響きをさせただけで、灰は甚だしく降ったという。[明治二十八年十月二十五日国会], 高原村では黒煙が空を通過したが降灰はなく、小林村も山に沿ったところだけで、作物に被害はなかった。[明治二十八年十一月九日宮崎新聞], 破裂の時刻は鹿児島測候所の公報によれば、十月十六日後零時二十六分十六秒である。降灰はわずかに四つの近くの山の梢の先端を覆ったに過ぎず、植物に害を与えるには至らなかった。日向の西諸県郡小林の近傍で多少の降灰があり、大隅国西曽於郡田口には著しい降灰はなかったという。小林は火口から北へ四里強隔たり、田口は破裂地を隔てること南西わずかに二里弱である。噴出した岩塊はその数すこぶる多く、その大きさは長径が二メートルに及ぶものがある。これらの多くの岩塊は、噴出の勢いによって西方に位置する中岳の側面に向かって無数の円錐形の小孔を穿った。その最も遠くに達したものは、噴火口から約二キロメートルのところにある。そしてこれらの円孔は、御鉢から西方に当たるところに最も多く、その他の方面にはきわめて少なかった。[地学雑誌 山上理学士], 同 28年12月18日(1895.12.18) 十二月十八日午後三時三十分頃、一大鳴動が起こり、黒煙が天を突き家屋の反響もまた甚だしく、焼石は同山の東麓に飛散したが、枯れ草が焼失した以外は人畜その他に被害はなかった。灰煙は東方向に吹き送られ、都城地方は硫黄臭の降灰がしきりにあり、顔を向けられない。また南那珂郡飫肥あたりも降灰があった。続いて同二十一日午後一時十五分、再び鳴動、噴煙が甚だしく、山間の村落は一時、視界がきかない状態なった。しかしまた幸いに被害を被ったものはないという。[地学雑誌], 在宮崎県の某氏からの通信・・・「昨年十二月十八日午後三時十五分頃、富士旅舎で休息中に大きな鳴響を感じました。一時間ほど経って、霧島岳の方向に当たる空中に黒煙を見受けました。そうしたところまた去る二十一日に鵜戸村の烏帽子峠の上で測点の建設中に、轟然一発。その後およそ三・四十分経ってここまで降灰があり、帽子、外套はもちろん眼の中へもいくらか風のために吹き入るぐらいでした。もっともこの日は西風が激しく、ここの海上までも届いた様子でした。前日の分は飫肥村内へもはっきり降灰があった由です。この日は風向は北西だったでしょう。[同上], 明治29年3月15日(1896.3.15) 午後六時二十分頃に噴火・鳴動し、焼石を数町の範囲に飛散させた。震動はおよそ五分間だった。[震災予防調査会報告第二十九号], 午後七時に轟音を上げて爆発し、宮崎では戸障子が振動し、空は濛々として降灰があった。[明治三十一年三月二十日 佐賀自由新聞], 明治31年12月26日から30日(1898.12.26~30) 午前、鳴動し、宮崎に降灰があった。[明治三十二年九月十三日 時事新報], 同 32年10月13日(1899.10.13) 霧島山の新しい噴火は二十九日までの四日間続き、大噴火。高原、高崎、庄内、高城、穆佐、都城、小林、倉岡、綾、高岡、須本、野尻のあたりまで石・灰が降り、田畑は大分損なわれ人馬も死亡した。[福島厳之介編纂 鹿児島県噴火書類], 享保2年1月3日(1717.2.13) 石・砂・灰の量 三万七千九百五十石余り 新燃岳は、火山性地震の増加に伴い、噴火警戒レベル1(活火山であることに留意)から2(火口周辺規制)に引上げられました。 今後、小規模な噴火が発生するおそれがあることから、火口から概ね2kmの範囲では大きな噴石に警戒してください。 噴火に伴い 山体崩壊 が発生し、磐梯山を構成する 成層火山 の峰の一つであった 小磐梯 は全面的に崩壊し消滅した。. 噴火は甚だ盛んで、神社をみな焼き尽くした。 [三国名勝図会], 西御在所霧島六所権現すなわち霧島宮は、田口村霧島山西側の中腹にある。欽明天皇の頃に創建したと言い伝える。後に山上から噴火し(延暦七年〈788〉七月の噴火とする説がある)、寺社が焼亡してから年月が経った。最初、上古の神社は現在の社地から東一里十町に当たる霧島山の峯である矛峯と火常峯(西峯)との中間、脊門丘にあったが、天暦年間に性空が脊門丘から現在の地に神社を移して六所権現と号した。それからおよそ二百八十年を経て、文暦元年甲子〈1234〉十二月二十八日に山上からまた噴火し、神社・寺院および什宝、文書等をことごとく消失した。その後二百五十年ほどの間は、神社・寺院は共に廃され、ただ仮宮のみがあった。文明十六年甲辰〈1484〉に兼慶法印が往時の社地を入手することを得て、社殿を建立して六所権現を遷宮し、往時の壮麗さに復した。だから現在の地は村上天皇の時、性空が神社を遷した場所である。社殿が脊門丘にあった時は、高千穂神社と称しただろうかという。[三国名勝図会], 天文23年(1554) 霧島が噴火・震動し、黒煙の上に白煙がたなびき、一日に三度、高く立ち上った。[福島厳之介編纂 鹿児島県噴火書類], 天正16年3月12日(1588.4.7) 天文二十三年から翌弘治元年〈1555〉まで噴火した。[三国名勝図会], 同 4年(1576) 噴火、一昼夜に三・四回鳴動し噴煙は空を覆い、飛んだ火山灰は四・五里に及んだ。五月九日に噴火。[日本山嶽志], 明治二十一年の秋、私が九州を巡回した際、たまたま鹿児島において一週間の滞在中に、旅館から毎日午後に噴煙の状況を遠望する好機を得た。ほとんど二時間ごとに定期的に噴煙が上がり、その様子は実に荘厳で、蒸気に混じって噴煙が中空に聳えるところは、あたかも巨大な噴水を見るようだった。[地質要報 マキスフェスカ氏記事], 同 22年12月10日~18日(1889.12.10~18) 霧島山(きりしまやま)は、九州南部の宮崎県と鹿児島県県境付近に広がる火山群の総称であり、霧島連山、霧島連峰、霧島山地あるいは霧島火山群とも呼ばれる。最高峰の韓国岳(標高1,700m)と、霊峰高千穂峰(標高1,574m )の間や周辺に山々が連なって山塊を成している。 古代においては 天孫降臨 説話の舞台とされ、高千穂峰の山頂には天孫降臨に際して逆さに突きたてたという 天の逆鉾 が立てられている。. 【驚愕】阿蘇山噴火の歴史がすさまじすぎる件 . 十二月三十日の夜十一時頃、大きく鳴動し宮崎では降灰があった。あたかも雪が積もったようになった。数日前にも大きく鳴動したことがあった。[明治三十二年一月一日 宮崎新報], 松山市で十二月二十七日午前二時前後に、遠雷のような異様な音響が三回聞こえたが、北宇和郡明治村および吉野生村付近では、翌二十八日朝に山野の別なく一帯に灰が降っているのを発見した。[明治三十二年一月八日 松山市愛媛新聞], 高知市では十二月二十六日に降灰があった、・・・また十二月末から土佐国で数回の小地震(空振だろうか)を感じた。[明治三十二年一月八日 高知日報], 同 32年7月28日(1899.7.28) 十六日午後零時三十分、鳴動が激しく、黒煙を噴出した。[宮崎県庁電報] 万治二年正月から寛文元年〈1661〉まで、また噴火した。[同上], 寛永2年12月15日(1706.1.28) を続け、直径約600mに達する。爆発的噴火が、1月27日から3月1日にかけて、13回発生。2月1日の爆発的噴火で、新燃岳火口から南西3.2km付近に大きな噴石が落下。 また、空振により鹿児島県霧島市で窓ガラス等が破損。2月14日の爆発的噴火で、小さな噴石(火山れき)宮崎県小林市に降下、車のサンルーフ等が破損。 また、2011å¹´9月上旬まで噴火を繰り返し、3月13日の噴火で、降灰は日向灘にまで達し、小さな噴石(火山れき)が、新燃岳火口から南東方向約9kmの都城市夏尾町に降下。 4月3日の噴火で、新燃岳火口から約600mの範囲に大きな噴石が飛散。 4月18日の噴火で、新燃岳火口の西から北側の約1kmの範囲に大きな噴石が飛散し、小さな噴石(火山れき)が、新燃岳火口から東側約9kmの宮崎県高原町に降下、太陽熱温水器や太陽電池パネルが破損。 4月、6月、9月には噴火に伴う降灰を50~60km離れた熊本県等で確認。マグマ噴出量は0.0172 DREkm. その目で下のグラフ(図3)を見ると、霧島山では噴火によるマグマの大量噴出(2011年1月の軽石および溶岩噴出,2018年3月の溶岩噴出)に伴う急激な縮みが認められる一方で、それらの後も伸びが続き、すみやかにマグマが蓄積されるていることが予想されます(2016年4月の縮みは熊本地震による影 … 「霧島」が最初に文献に登場するのは837年(承和4年)8月の 続日本紀 であり、諸県郡の霧島岑神社を官社とする旨が書かれている。. 桜島が噴火 噴煙が火口上5000mに上昇 噴煙量は多量. ウェザーニュース. 火 … 霧島山が震動、噴火。[地学協会報告](一説に、天正十三年十月七日から、大地震が年を越えたとある), 同 15年4月17日(1587.5.24) 昨年の十二月二十六日からこの正月十一日までたびたび大噴火し、日向国諸県郡の損失は左記の通り。 更新日:2020年12月25日. 鳴動・噴煙を上げ、都城地方に降灰があった。茶葉および桑の木に多少の損害を与えた。[明治三十年五月十二日 東京朝日新聞], 同 30年6月25日(1897.6.25) 十六日午後零時二十六分十六秒、霧島岳が大音響とともに破裂した。[鹿児島県庁および同測候所電報], 明治28年10月16日(1895.10.16) 午前一時三十分頃、遠雷のような鳴動が激しく、山麓の家屋は揺れた。黒煙を噴出した。[明治三十二年八月七日 東京朝日新聞], 同 32年9月12日(1899.9.12) 有史以前より噴火を繰り返し、活発に活動してきた霧島山。特に御鉢や新燃岳は日本の歴史上何度も噴火し、新燃岳の享保噴火(1716~17)のような大きな被害をもたらしたケースもあります。 鹿児島では十二時頃、小雨に混じって微量の降灰があった。霧島山の火山灰を吹き送ってきたのだろう。[明治三十年六月二十七日 鹿児島新聞], 同 30年9月4日(1897.9.4) 1888年の磐梯山噴火 (1888ねんのばんだいさんふんか)は、 1888年 ( 明治 21年)7月15日に発生した 磐梯山 の噴火である。. 朝、鳴動し、宮崎に降灰があった。[明治三十二年十一月八日 大阪毎日新聞], 同 33年2月16日(1900.2.16) 十九日頃から大きな噴火をし、鳴動が激しく今なお止まない。[官報], 十九日頃から大きな噴火をし、一昼夜におよそ十四回鳴動が激烈で、黒煙を発し噴気が盛んなときには石を飛ばし灰を降らすなどの異常を呈し、山麓の一里内外は草木等の葉を枯れしぼませた。[地学雑誌第三集], 十一月十日頃から昼夜十四・五回ずつ大きな噴火をし、鳴動し黒煙を上げ、近傍一里内外に灰を降らし、ところどころ草木の葉を枯れしぼませたところがあった。同二十日頃からだんだん噴火、鳴動ともに減った。[地学雑誌第三集], 同 27年2月25日~28日(1894.2.25~28) 筒井正明・奥野充・小林哲夫 (2007) 霧島・御鉢火山の噴火史. 御鉢の近来の噴火についてその概要を摘録すると、明治十三年九月頃まで極めて静穏な状況だったが、同月突然爆発してから以後活動状態を中断することなく、蒸気・二酸化硫黄ガスの噴出は次第にその勢いを増し、噴火口内におびただしく硫黄の堆積が見られるようになり、争ってこの採掘に従事するようになったが、明治二十二年〈1887〉十二月の爆発により、硫黄の堆積物は火口外に飛散して跡を留めなかった。[地学雑誌 山上理学士], 同 21年2月21日(1888.2.21) 2015年9月14日に阿蘇山が噴火し、警戒レベルが3まで引き上げられましたね。依然として緊張状態が続く阿蘇山ですが、過去にはどんな噴火の歴史が存在するのでしょうか?またカルデラ噴火とは一体?過去の噴火による被害状況やレベルの深刻度も見ていきたいと思います。 歴史. 去る十八日に噴火した霧島山は、二十一日午後一時十五分に再び爆発し、黒煙は東方向へなびき、都城付近の各村には降灰があった。[明治二十九年十二月二十九日 報知新聞], 同 30年5月3日(1897.5.3) All Rights Reserved. 九月二十六日の夜半頃から霧島の西岳が震動して、周囲三里半ほどは所々で噴火破裂し、そのためにその範囲にある山林および神社・仏閣等はことごとく焼失し、その他災害を受けたものは砂石が侵入した十二の外城(外城とは一ヵ村のことである)が焼失し、その家数六百軒(あるいは六百四軒)、負傷者三十一人、斃死した牛馬四百五頭、田畑六千二百四十町八反六畝十九歩、この農産高六万六千百八十二石あまり。その後三・四年の間、灰が降ってあたかも春霞のようだったという。(日本災異志による。損害統計は翌年正月の分も含めたようだ) 富士山はいまからおよそ10万年前に誕生したと考えられています。日本の火山の多くが数十万年から100万年にもおよぶ歴史を持っているのに比べると、まだ若く、元気いっぱいの火山と言えます。 富士山は、大きさの点でも形の美しさの点でも、日本を代表する火山です。この富士山は、どのようにして生まれ、いま見られるような姿になったのでしょうか。 およそ20~10万年前、現在の富士山のやや北側に、小御岳(こみたけ) … 霧島山が噴火した。[福島厳之介編纂 鹿児島県噴火書類] 同 6年1月9日(1678.2.29) 霧島山が噴火した。[同上] 寛永2年12月15日(1706.1.28) 山上で噴火し、神社(六所権現社)・堂塔・寺家、みな焦土となった。[ … 霧島山の噴火の歴史や噴火の特徴 非常持ち出し品の準備をしておきましょう。 について知っておきましょう。 家族で避難場所や避難路について、 話し合っておきましょう。 事前に、避難時に危険な箇所を 把握しておきましょう。 噴火警戒レベル1 天孫降臨の地。霧島連山の歴史と魅力を体感! たくさんの火山が重なって形成されている霧島連山。天孫降臨の地、パワースポットとして有名な鹿児島を代表する山でもあり、今もなお火山活動が続いている活火山でもあります。 夜、霧島山のうち小林・曽於郡境の笈掛岳の北の金剛界胎蔵界両部池あたりで新しく二カ所噴火した。これによって小林あたりは震動し、高原のうち花堂の松八重川は増水し、魚が死んで流れた。[三国名勝図会], 同 元年9月26日(1716.11.9) 約5万年前の噴火活動で出来た霧島山の中では比較的古い火口湖です。 (7)夷守岳(ひなもりだけ)1,344m 約4万年前に活動していた火山で、“生駒富士”とも呼ばれ美しい山の形をしています。 諏訪之瀬島 噴火警戒レベル3(入山規制)に引き上げ. 午前八時十六分に爆発し、たまたま登山していたフランス海軍大主計リエール氏は、焼石に打たれて負傷し、案内人の吉松某は惨死した。[明治二十九年三月二十二日 大阪朝日新聞], 同 29年6月22日(1896.6.22) 天正四年から同六年〈1578〉まで、また噴火した。[三国名勝図会], 同 13年(1585) 筒井正明・小林哲夫 (2008) 霧島、大幡山周辺における鬼界アカホヤ噴火前後の火山活動 (演旨). 霧島山 有史以降の火山活動 大規模な噴火は788年(御鉢)、1235年(御鉢)、1716~1717年(新燃岳)に発生しており、新燃岳と御鉢の活動が主である。 そして北麓に岩屑なだれが流れ下り3つの集落が埋没した。. 大噴火。土・灰がしきりに飛び、近郷の田を埋めること数十里に及んだ。[日本災異志], 明和8年(1771) 『日本噴火志』(霧島山)・現代語訳 天平14年11月23日(742.12.28) 十一月壬子の日、大隅国司から報告、「今月二十三日未の刻から二十八日に至るまで空中で音がし、太鼓のようだった。野の雉子も驚き地面も震動し、丙寅の日に使者を大隅国へ遣わして状況を調査し、神の託宣を請わせた」。[続日本紀] 延暦7年3月4日(788.4.18) 七月巳酉の日、太宰府から報告、「去る三月四日戌の刻、大隅国の曽於郡曽乃峯で火炎が盛んに上がり、響きは雷のようであった。亥の刻におよんで火光はようやく止まり、ただ黒煙だけが見えるようになった。そしてその後、砂が降り、山頂下五・六里は砂石が積もり、二尺にも及んでいるようだ。その色は黒い」。[続日本紀] 承和4年(837)秋8月、日向国の都濃・妻・江田・霧島の四神を、官社に預かる。[国史紀事本末] 承和10年(843)9月甲辰、日向国の無位高知保皇神に、従五位下の位をお授けになった。[続日本後紀] 天安元年(857)6月甲申、肥後国にある従五位上曽男神に、正五位下の位を授けた。[類聚国史] 天安2年(858)10月22日、日向国の従五位下高知保皇神に、従四位上の位を授けた。[三代実録], 『襲山考』に言うには、「縁起および『僧性空伝』、『平家物語』等を考え合わせると、天慶八年に性空が・・・誠心をこめて山頂に登り、法華経を唱えること七日にして神勅を受けようと五日間滞在したが、全山震動して猛火を発し、しばらく止みそうにはなかった」。[福島厳之介編纂 鹿児島県噴火書類], 霧島山大曼荼羅院西生寺は、梅北村益貫にある。初め小松内府平重盛が霧島山東麓の佐野に寺を建立して霧島山西生寺と号していたが、その後住持が尋誉上人の時にある夜神童が来て、「三日経って霧島山が噴火し、寺院は火災に遭うだろう。速やかに三里以遠に退去しなさい」と告げた。そこで僧侶たちは当時の本尊と鎮守の山王権現を奉じて、現在の地梅北に移った。はたして霧島山が噴火し、堂宇が焼け落ちた。実に仁安二年のことである。[三国名勝図会], 文暦元年12月28日(1235.1.25) 気象庁が提供するページです. 田畑 十三万六千三百坪余り 午前三時五分頃、鳴動し火煙を噴出した。黒煙は次第に東方向に向かって消え散り、鳴動は巨大な砲声のようで、次第に遠雷のようになり、約二分間継続した。[明治三十二年十月十五日 宮崎新報], 同 32年11月7日(1899.11.7) 正月三日、霧島山の新しい噴火はまたまた規模が大きくなり、これ以後七日から十一日まで続いて大噴火。その付近は火石で家屋が焼失し、錫杖院は寺家残らず焼失、田畑は石・灰で埋まり牛馬が多く死亡した。高原、高崎両所の役人たちまで方々へ引き移った。 活断層・火山研究部門 更新:2018年7月25日 開設:2018年3月7日 産総研 地質調査総合センター (gsj) は霧島山新燃岳2018年3月1日からの噴火に対応し、現地調査チームを派遣しました。 霧島が噴火し、申の刻と酉の刻の間、大地震。[同上], 慶長3年(1598) 霧島山(えびの高原(硫黄山)周辺)の噴火警報発表に伴う立入規制等について ; マイメニュー. 浅間山で火山性地震が増加 噴火警戒レベル2を継続. マイメニューの機能は、JavaScriptが無効なため使用できません。ご利用になるには、JavaScriptを有効にしてください。 ここから本文です。 ツイート. 公開時間、駐車場、アクセス情報や周辺のおすすめホテル、旅館、レストランをご紹介。瓊瓊杵尊を祀り、国家安泰から家内安全までご利益があるといわれる古社。現在地に移ったのはおよそ500年前とされ、霧島山の噴火による焼失と再建を繰り返した歴史をもつ。 新燃岳(しんもえだけ)は、九州南部の霧島山中央部に位置し、有史以降も噴火を繰り返している標高1,421mの活火山である。三等三角点は山頂のカルデラ縁にあり、噴火口およびカルデラは鹿児島県霧島市域に位置する 。尾根筋は宮崎県小林市にまたがる。 日本火山学会講演予稿集, 2008, 137-137. 雑穀 千五百四十石余り 明和八年から翌年〈1772〉にいたるまでまた噴火し、およそ享保元年〈1716〉からこの年までしばしば盛んに噴火した。焼石は炎となって空から落ち、砂石は糠をかぶったようで、灰燼が降って昼も夜と変わらない。通行する人は筵を頭に乗せて負傷するのを防いだ。数里の間、田畑を埋没させ、草木は焦げて枯れた。[三国名勝図絵], 明治13年9月(1880.9) 東霧島社、狭野の神体は守って持ち出し、瀬戸尾社の神体は後日、焼け跡から掘り出した。今朝、福山町の者たち男女十一人が瀬戸尾へ参籠したところへ、山中が大噴火したので五人は焼死、六人はようやく命が助かり翌朝花堂まで下ったと、小林から申し出があった。[同上], 同 元年12月26日(1717.2.7) 霧島山新燃岳2018年噴火に関する調査結果. 夜十二時頃から鳴動し、降灰があった。[地質学雑誌], 同 29年6月26日(1896.6.26) 霧島山は約34万年前に破局的噴火によってできた加久藤カルデラの南縁に、その後の数十万年の火山活動でつくられた火山群の総称です。 ウェザーニュース. Tweet. 宮崎では前夜十二時頃少し鳴動し、今日午前一時過ぎには爆発音を聞いた。降灰があった。[明治二十九年六三二十日 大阪朝日新聞], 同 29年12月21日(1896.12.21) 霧島といえば温泉。良質の湯は温泉ファンからも高い評価を受けています。霧島神宮を中心とした霧島神宮温泉 郷は霧島山の山懐、標高800mの湯之野温泉を泉源とした歴史ある温泉郷です。1枚で3件の入浴ができ特典も受 けられる「入湯霧札」も好評です。 慶長三年から五年〈1600〉まで、また噴火した。[三国名勝図会], 万治2年1月(1659.2) 午後八時に噴火が約十分間継続し、多少焼石を飛散させた。[明治三十年九月十七日 東京朝日新聞], 同 31年2月8日(1898.2.8) 宮崎豚子 2014年11月30日 宮崎県の人気記事, 宮崎県の場所, 高千穂町. 霧島山(新燃岳) 噴火警戒レベル2(火口周辺規制)に引き上げ . 考えるに、正月三日に八丈島に於いて闇になったのは、霧島噴火の細かな灰が疾風に吹き送られて、八丈島に落ちたのだろう。同月十日に小雨のような白い砂が申酉の方角から降ったとあるのも、  同じく霧島山から来たのだろうか。霧島山は八丈島からは西南西、すなわち申酉の方角に当たる。, 正月七日にまた噴火し、俗に両部岳の新噴火という。諸県郡の諸村の田畑は、被災したもの十三万六千三百余区という。[三国名勝図絵], 同 2年8月15日(1717.9.19) 午後八時二十五分頃に爆発した。宮崎町でも家屋が振動した。 [明治三十六年十一月二十七日 大阪毎日新聞], 今回の噴火は西岳村字牛ノ臑、馬渡、尾首山等におびただしく灰および砂礫を降らせ、牛ノ臑地内には拳大の焼石もあった。[明治三十六年十一月二十九日 鹿児島新聞]. 堂社 十一宇、寺家三十軒、寺の門前五十三軒、社家二十六軒、百姓家十四軒、死者 男一人、怪我人三十人、死亡した牛馬 四百二十匹。[福島厳之介編纂 鹿児島県噴火書類], 日向国霧島山は、昨年の九月から噴火を始め震動が止まなかったが、昨年の十二月二十八日、九日の二晩、おびただしく震動し、同国御代官所の那珂郡、諸県郡の十三ヵ村、石高一万石余りの所、霧島山からは道にして十里あまりあるところへ焼灰・砂利がだんだん降り、この正月三日の朝五つ半時から九つ時までに、大地震があり、砂混じりの焼石が降り積もり、田、麦畑、菜園を埋めること四・五寸、あるいは七・八寸、ことごとく砂地になり、御代官室七郎左衛門から注進があった。[承寛襍禄], 享保二酉年三日辰の刻頃から、空が夜のように闇になった。ただ東西南北の麓は晴天で、島中の村々家々の中はしばらくの内、暗かった。同月七日に大地震、同十日申酉の方角から小雨のような白い砂が降った。[八丈島年表] 爆発し、加久藤では強い鳴動を聞いた。[明治三十六年九月一日 九州日々新聞], 同 36年11月25日(1903.11.25) ウェザーニュース. 山上で噴火し、神社(六所権現社)・堂塔・寺家、みな焦土となった。[同上], 享保元年2月18日(1716.3.11) © 2016 Earthquake Research Institute,The University of Tokyo. 御鉢と呼ぶところは、明治十七・八年〈1884,1885〉の頃からだんだん噴火の勢いを増し、同二十一〈1888〉年二月頃に至っては鳴動や噴火が甚だしく、実に容易ならざる様子だった。しかし以後その勢いが衰え、一日一回ないし二回の噴煙を見る程度になったが、先月十日午前一時頃に突然大噴火し、その響きは激しい雷のようで、黒煙は空に満ち噴出する火石は中天に上がり、昇降の際に互いにぶつかり合い、あるいは飛散し、あるいは破裂するなど、その様子はあたかも花火のようで、散乱した火石は降り積もった硫黄に燃え移り、盛んに延焼してほとんど野火と異ならない奇観を呈し、その降灰は遠く数里におよんで噴煙は甚だしく、灰を降らし砂礫を昼夜七・八回飛ばしたが、なかでも同十八日午後零時三十分頃からの噴火は、鳴動、火炎、噴煙共にいっそう甚だしく、空は朦朧となり降灰は地上二・三分の厚さに堆積した。そうしたところ幸いに西風が吹き始め、そのため同村では被害を免れたが、西諸県郡高原村などはその風が吹きなびいて黒煙が空に満ち、そのため晴天はにわかに暗黒となって白昼に道が分からなくなり、灯で照らして逃げ出す者がいた。以後、昼夜鳴動・噴煙が止まなかったが、特に甚だしい異常は認められなかった。[鹿児島県報告 明治二十三年一月二十三日官報], 明治24年6月19日(1891.6.19) 「霧島火山 -ボラ(軽石)が降ってきた! 新燃岳の噴火とその恵み- 」 (gsj研究資料集 no.578, 2013年) については こちら をご覧下さい。 「霧島山新燃岳2017年噴火」 については こちら をご覧下さい。 午前九時頃に噴火した。当時狩猟のために飼い犬七頭を引き連れて、霧島山西南山腹の字大尾ノ谷というところにやって来た五名の者はこの爆発に遭遇し、五名とも重傷を被り、内二名は後で死亡した。同所は噴火口からわずか八百間から千間の距離である。[明治三十三年二月二十四日 鹿児島新聞], 同 36年8月29日(1903.8.29) 山・他,1996;1997),活動的な火山域とみなされている. この様に地下浅部にまで達する深部低比抵抗層や歴史時 代の噴火実績から,この地域で再び噴火が発生する可能 性は十分にあり,より詳細な活動史と活動特性を明らか 二月二十五日に噴火した。霧島の山麓部分においては、同日の鳴動前に不思議な音響を聞いたが、午前十時三十分に爆発し、黒煙は東に向かって流れ散り、宮崎地方に降灰があった。西諸県郡高原村大字蒲牟田字抜[祓の誤りか]川(霧島東麓)においては、灰とともに大豆大の小石を降らした。翌二十六日午前八時二十分に鳴動した。その翌日は前回に比較すれば小さく、ただその噴煙が平常時に比べてやや増えただけだった。今日二十八日午前七時五十一分にまた鳴動した。その響きは前に比べてやや大きかった。当地方に少し灰を降らした。[宮崎県庁報告], 霧島山の鳴動の余響だろうか、三月五日に鹿児島でも幾度となく遠地鳴動を聞いた。[明治二十七年三月六日鹿児島新聞], 二月二十五日午前十時三十分に鳴動した。十一時三十七分から同五十七分まで二十分間、焼砂を降らした。幅一尺七寸八分、長さ二尺四寸八分の紙(宮崎新報)で受けたところ重さが三分あった。すなわち一坪に二匁三分の割合である。[宮崎県庁電報], 同 28年7月16日(1895.7.16) 使い方. このとき高原の狭野社、神徳院、霧島東御在所社、錫杖院、小林の霧島中央宮、瀬戸尾寺および高原、高崎、小林等の民家、山林はみな燃えた。一書には、東霧島社もこの噴火で焼けたという。東霧島社は高城にある。[三国名勝図会], 霧島山両部池のあたりで、新たに大きく噴火した。高原の東霧島神社、狭野権現の社、神徳院の寺中、門前ならびに高原の野町、小林の瀬戸尾権現の社、ならびに別当寺はことごとく焼失、小林の山の九ヵ所の狩場が焼失、高原、高崎あたりは石・灰で田畑を多く埋めた。 午前一時に鳴動・噴煙を上げ、降灰があった。焼石が飛散した。同一時三十分頃、再び鳴動した。[明治三十一年二月十一日 鹿児島新聞], 同 31年3月11日(1898.3.11)