2019.05.19 共通テスト世界史B解説(通史)tky1942, 第一次世界大戦が終了し、敗戦国のドイツではヴェルサイユ条約にて多額の賠償金を課せられます。賠償金、1320億金マルクは、現在の日本円で約200兆円とも試算されていて、ドイツが返せるわけがない天文学的数字でした。, そんなドイツ国民の不安を払拭して一気に権力を掌握したのがヒトラーだったのです。ヒトラーは世界恐慌で社会不安が起きると、一気に権力を掌握して独裁体制を強めて第二次世界大戦の準備を始めます。, ドイツ共和国に課せられた1320億金マルクというとても払いきれない賠償金。当然毎年の支払いができるわけもなく、1922年には支払いが滞ります。, ドイツの賠償金支払い不履行を理由に、フランスはドイツの炭鉱地帯であるルールを占領しました。しかしルール地方はドイツの工業の中心地帯です。ドイツ政府はルールの労働者にストライキを推奨してフランスに対して抵抗活動をさせたので、ドイツ工業の生産能力は極度に低下しました。, ドイツ政府はストライキをしてくれた労働者に給料を払い続けたものの、労働生産能力は落ちているのでドイツはモノ不足。金は流通してるのに、モノがないということでハイパーインフレーションが起きます。たった1年間でお金の価値が16億倍になったのです。(昨日まで100円のパンが1600億円になってるんだから恐ろしいです), ドイツ首相のシュトレーゼマンはインフレを終わらせるためにレンテンマルクという臨時通貨を発行します。レンテンマルクはドイツの土地を担保に1兆マルク=1レンテンマルクと交換できました。人々はすぐに価値が変わるマルクを信用しておらず、政府が土地を担保に発行したレンテンマルクにすぐに飛びつきました。, さてハイパーインフレの原因となったドイツ賠償金問題は国際的に議論され、1924年アメリカのドーズ案を受けて賠償金支払い額を当面少なくしました。フランスはドイツから土地占領によってお金を得ようとしましたが、アメリカはドイツを経済支援することで結果的にお金を得ようとしました。この案が受け入れられたことでフランスはルール地方から撤退します。, ドイツのハイパーインフレが終わり、1920年代のヨーロッパはなんとか安定期となったのです。, しかしこれに困ったのはアメリカです。戦争で疲弊したヨーロッパ地域は、アメリカからのモノの輸入に頼ってきましたが、ヨーロッパの景気も復興してきたため、モノあまりの状態になってしまいました。モノが売れない会社の株は誰も持ちたくないので、1929年に暗黒の木曜日、世界恐慌がやってきます。, ニューヨーク株式取引所にて株価は大暴落を起こします。当時のアメリカは世界一の経済大国です。その大国の経済が崩壊したので連鎖的に、アメリカと関わりの深い国の経済も暴落していきます。最も影響を受けたのはドイツです。ドーズ案以降、ドイツはアメリカからの金融支援で成り立ってきたので、それが打ち切られて一気に不景気になります。他ヨーロッパ諸国も同様です。, 世界恐慌の中心地アメリカでは、1932年からフランクリン・ローズベルトが大統領になり、ニューディール政策という経済復興政策を行います。簡単に言うと、政府が経済をコントロールしようとしました。, 政府が農業生産量をコントロールしようとしたAAAであったり、テネシー川流域開発公社(TVA)を立ち上げて公共事業を推進して失業者を減らそうとしました。, あまり成果を上げたとされていない政策ですが、底力のあるアメリカは段々と経済復興していきます。, イギリスでは、1932年にオタワ連邦会議を開いて、イギリス連邦内(海外植民地含む)の間での関税を大幅に下げて、自分たちの連邦以外の国に対しては高い関税をかけることにしました。, 世界中が不況なので輸出産業は全く成り立たないので、イギリス連邦内だけで経済を完結させることにしたのです。自由貿易主義から、保護貿易主義への転換です。これをブロック経済といいます。自分たちの国・植民地以外をブロックするからブロック経済。イギリスのブロック経済体制を、ポンド=ブロックといいます。, フランスもフラン=ブロック、アメリカもドル=ブロックを行います。自分たちの市場を確保したイギリス・フランス・アメリカは「持てる国」として、経済を復活させていきます。, 一方で、「持たざる国」となったのがドイツ・イタリア・日本です。特にドイツは世界恐慌の影響を2番目に受けた国でした。, 植民地を奪われ、国内市場も復興していないドイツでは1930年から社会不安に晒され、国民は自分たちの不遇をヴェルサイユ体制にぶつけます。海外植民地の放棄、高額過ぎる賠償金。, 「持たざる国」ドイツ・イタリア・日本では、ファシズムという独裁者が議会政治を否定して、強力な権力を持ち国家運営をする政治体制が出現し始めます。, ファシズム始まりの国は世界恐慌前のイタリアでした。イタリアは第一次世界大戦の戦勝国となったものの、ヴェルサイユ体制では何の領土拡大も果たすことができず、経済は停滞したままでした。イタリア政府に不満を強めた国民は、北イタリア労働者を中心に大規模なストライキが起こります。彼らはロシア革命のような革命を目指したものの失敗します。, 革命を恐れた資本家たち中間富裕層らは、社会主義革命を抑えてくれる強力な権力者を求めました。, それがムッソリーニです。ムッソリーニが組織したファシスト党は、革命を目指す労働者らを暴力にて鎮圧して、中間富裕層の支持を得ます。, ムッソリーニは政権を獲得しようと、ファシスト党の武装私兵ら4万人がローマ進軍を実行し、強力な権力を国王・内閣に見せつけようとデモを起こします。, 当初は正規軍に鎮圧されそうになりますが、イタリア国王がムッソリーニを認めて首相に命じます。首相となったムッソリーニは、1926年に権力をファシスト党に集中させる一党独裁体制を確立して、独裁者として政治を進めていきます。, ムッソリーニはその強い権力から、1870年のイタリア統一から続いてきたイタリア政府のローマ教皇との確執問題を解決しようと、1929年ラテラン条約でローマ教皇との和解を実現して、ローマ教皇領ヴァチカン市国の独立を認めます。, 世界恐慌の影響を強く受け、経済が大混乱を起こしたドイツでは国民の多くが失業して社会不安が煽られました。自分たちの不遇の原因は何なのか?, その答えを明快に語ってくれたのがナチ党のヒトラーでした。最初は有象無象の右翼政党の1つでしかなかったナチ党も、ドイツ国民の社会不満が高まるに連れて、ヒトラーの巧みな演説と宣伝活動によってナチ党に熱狂する人々が増えてきました。, その思想は、反ユダヤ人、ヴェルサイユ体制の打倒、反共産主義でした。 ハイパーインフレはフランスとベルギーがドイツ最大の工業地帯であるルール地方を占領し、それに対処するためにドイツ「政府」が大量の通貨を発行したからだというのが当時の西側の見方であった。 ルール占領と同時にハイパーインフレが加速したのも頷けますね。 では本題の「どうやってハイパーインフレが収束したか? 」ですが、これはレンテンマルクの発行やデノミ・・・デノミネーション、通貨の桁を小さくする(ゼロの数を少なくする)事。 良く日本の経済学者は、予測不能の事態になるとハイパーインフレが来る!とか、国債が紙屑になる。とか騒がれる方も居ます。まずはインフレとデフレこれは何を意味するの… 南北戦争(南北の分裂を阻止、統一) 2. ・twitter:@history_contact 歴史 - 第一次世界大戦でドイツは敗北して賠償金を負い、その支払いの遅延を理由にフランスとベルギーはルール地方を占領しましたが、 それに対してドイツはどうして鉄鉱業を停止して抵抗したのでしょうか? そ 今回はドイツのハイパーインフレがなぜ起きたのかについて解説しました。 ポイントは、 ルール地帯の占領と、お札をたくさん刷っていた ことですね。 ルール地方のドイツ人はストライキで対抗します。 生産活動は低下し、またドイツ政府が彼らの支援のために大量の紙幣を発行します。 ただでさえ戦後の物不足でインフレが進行していたころです。 それがこのルール占領とそれに対する消極的抵抗のために生産がストップしたことによって、インフレ率は天文学的数字(マルク紙幣は1913年に比べて1兆分の1まで低落した)に達するというドイツ経済の崩壊につながったのである。 ルール占領によるハイパーインフレの発生. こうして、異常なインフレが始まった。 マルクは、1921年10月の1ポンド=712マルクから、1922年末の3万5000マルクにまで暴落した。 1923年1月から、フランスは、ベルギーとともにルール地方の占領 … 戦間期におけるルール占領(ルールせんりょう)とは、1923年に発生したフランスおよびベルギーが、ドイツのルール地方に進駐、占領した事件。 当時の同地方はドイツが生産する石炭の73%、鉄鋼の83%を産出する経済の心臓部であった [1] 。 ・メール:restart1861@gmail.com それはアメリカが、フランス、イギリスといったこの時世界の覇権を握っていた強国に、多額のお金を貸していたからだ。この戦争でフランスとイギリスは、アメリカに借金を作ってしまったのである。 1. 2012年から始まったアベノミクス一本目の矢、大胆な金融政策が実施された時、多くの経済学者は『日本でハイパーインフレが起こる』と金融緩和を批判しました。 第一次世界大戦でドイツは敗北して賠償金を負い、その支払いの遅延を理由にフランスとベルギーはルール地方を占領しましたが、それに対してドイツはどうして鉄鉱業を停止して抵抗したのでしょうか?そのせいでドイツ国内ではインフレーシ 1923年のフランス・ベルギー軍のルール占領を機に、労働者がゼネストに入って生産がストップしたために一挙に進行した。 マルクの価値は戦中に比べ 1兆分の1に下落 するという天文学的数字となり、労働者、さらには中間層にも大きな打撃を与えた。 歴史が苦手な方から歴史好きの方まですべての方々に、幕末から昭和までの日本近代史をわかりやすく解説します。 すべての方が自由な観点で日本について考えていただくきっかけとして、当サイトを参考にしていただければと思います。 アメリカ西部開拓(ゴールドラッシュ、商工業の発達) 3. 戦間期におけるルール占領(ルールせんりょう)とは、1923年に発生したフランスおよびベルギーが、ドイツのルール地方に進駐、占領した事件。当時の同地方はドイツが生産する石炭の73%、鉄鋼の83%を産出する経済の心臓部であった[1]。, 第一次世界大戦のドイツ帝国軍侵攻により、フランスおよびベルギーの炭鉱地帯は大きな損害を受けた[2]。戦後処理を討議したパリ講和会議等でフランスはドイツに対して多額の賠償金と、自国およびベルギーに対する石炭の現物支給を要求し、ヴェルサイユ条約などで賠償支払いおよび石炭の無償供給が定められるとともに[2]、ルール地方を含むラインラントの非武装地帯化が定められた。しかしドイツの採炭能力も極度に低下しており、決定された量の半分以下しか供給することができなかった[2]。フランスのアレクサンドル・ミルラン首相は、1920年2月のロンドン会議においてドイツの条約不履行を責め、連合国がドイツ最大の工業地帯にして炭鉱地帯であるルール地方を保障占領するべきだと主張した[2]。イギリスのデビッド・ロイド・ジョージ首相はドイツの不履行は不可抗力によるもので、自発的な不履行でない限りそのような強硬手段に出るべきではないと反論し、ミルランも折れた。しかし石炭供給状況はいっこうに改善されず、フランスはその後もルール地方の占領を主張し続けた[2]。, 1920年3月13日にはカップ一揆が発生、ドイツ政府はこれに労働者にゼネストをよびかけることで対抗し、鎮圧した。しかしルール地方のゼネストはその後も鎮静化せず、復帰した政府に様々な要求を突きつけるなど混乱していた[3]。カップ政府をふくむドイツ政府はルール地方への出兵を検討し、連合国側に打診していたが、フランスはこれもドイツの条約不履行姿勢であると批判し、連合国による占領を重ねて主張した[4]。一方イギリスはヴェルサイユ条約を緩和しても共和政政府を助けるべきであると考えており、フランスの強硬姿勢にはあくまで反対であった[4]。フランスはドイツと直接交渉を行い、イギリス政府関係者を激怒させた[5]。4月3日、ドイツは連合国の許可を得ないままルール地方に派兵した。フランスはこれに対抗してイギリスの反対を押し切って派兵し、フランクフルト・アム・マイン、ダルムシュタット、ハーナウ、ホンブルク、ディーブルクの五都市を占領した[6]。ベルギーはフランスの行動を支持したが、イギリスはフランスの行動に激怒し、両国関係は英仏協商締結以来、最悪の状態となった[6]。フランスはイギリスの撤兵要求に対して、ドイツが撤兵するまで占領を続けると回答し、ドイツ軍が撤兵した後の5月17日まで占領を続けた[7]。, 1921年1月からパリで賠償金総額を確定する会議が開催された。会議の結果、ドイツは総額2260億金マルクを42年間にわたって支払うことが求められた[8]。ドイツは賠償総額の削減を求めたが、3月1日から開催されたロンドン会議においてその要求は拒否され、8日からはデュッセルドルフなどが一時占領された。5月5日、連合国は賠償金の総額を1320億金マルクとし、ドイツは年20億金マルクと輸出額の26%を支払うように求め、ドイツが拒否した場合はルール地方を占領するという通告(ロンドン最後通牒)を行った[8]。賠償金削減に努力してきたドイツのフェーレンバッハ内閣は、この要求によって連立政権内部が紛糾し、総辞職した。それを受けて5月10日に成立したヴィルト内閣は少数与党であったが、ドイツ社会民主党、独立社会民主党、中央党、そしてドイツ民主党の大半の議員が要求受諾を受け入れ、220対172で可決された[9]。ヴィルトは賠償金支払いの「履行政策」を掲げ、5月31日に10億マルクの支払いを開始した[9]。, しかし1921年度分の賠償を支払うことはできたものの、翌年分の支払いは困難となった。12月14日にドイツは賠償委員会に対して翌1922年1月と2月の賠償支払い延期を要請した。委員会は延期を認めたものの、支払計画の提出と、一部の賠償支払いを要求した[10]。この間にフランスでも政変が起こり、対独強硬派のレイモン・ポアンカレが首相となった。ヴィルト内閣は税制改革や強制公債発行などを主軸とする支払計画を作成したが、強制公債に対してはドイツ国内でも強い反発があった[11]。しかしインフレーションの進行により、公債による賠償資金調達は失敗に終わった[12]。ドイツはジェノア会議において賠償金問題を取り上げるよう要請したが、フランスの反対により取り上げられなかった[13]。1922年後半にはインフレがさらに進行し、マルクの対ドルレートは、7月に1919年時点の117.5倍、12月には1807.8倍に達していた[14]。ドイツはこの状況では支払は不可能であるとし、残りの1922年分と1923年、1924年分の支払免除を求めた[14]。8月の連合国会議は支払い猶予については決定を延期するとしながらも、政府公債による支払を認めるなど、1922年中については事実上支払を免除した[14]。11月14日、ヴィルト内閣は総辞職したが、それとともに「賠償金・現物払いの3-4年免除」を求める覚書を提出し、ヴィルヘルム・クーノ内閣もその見解を継承し、改めて連合国に支払の2年猶予を求めた。しかし12月19日からのロンドン首脳会議においてポアンカレは、ドイツに対して「生産的担保」を求め、ドイツ案は不十分であるとした[15]。フランスも対英米の債務に苦しんでおり、賠償金支払いは不可欠であった。, 12月26日、連合国賠償委員会はドイツによる木材の現物賠償による引き渡し量の不足は、ドイツ政府の故意によるものであると認定した。この認定にはイギリスは反対し、1923年1月に開催されたパリ会議では賠償総額を500億マルクに減額するなど、支払の緩和政策を主張した[16]。しかしフランスはこれを拒絶し、会議は物別れとなった[16]。さらに1月9日の賠償委員会では石炭供与についても不履行があると認定した[15]。グスタフ・シュトレーゼマンは、フランスが1922年に受け取れる現物賠償を、国内産業への配慮から故意に受領しなかったとして批判している[17], 1月4日、ポアンカレはルール占領を声明し、1月11日からフランス5個師団、ベルギー2個師団がルール地方の占領を開始した[16]。占領の公式な名目はルール地方の工業および鉱山の監視する連合国監視団の保護であったが、実際にはルール地方の物流を差し押さえることによって賠償を確保するとともに、ドイツに圧力を加えるためのものであった[18]。, ドイツは駐仏大使を召還し、さらに占領に対して受動的な抵抗運動を呼びかけた[1]。炭坑や工場、鉄道、行政は全面的に不服従やストライキを行い、占領に抵抗した。ストライキに参加した労働者の給料は、政府が保証した。また、当時連合国軍の占領下にあったラインラントでも占領軍に対するテロが発生するようになり、これらの地域の情勢は極度に悪化した[1]。イギリスはロイド・ジョージが「非武装の国に対する軍事侵略であり、正当化されず、無益であることがいずれ判明するべきものであった」と批判し[19]、労働党などの左派もこれを批判した。フランス国内では社会党など左派は占領に反対していたが、右派やフランス国内の新聞はさらに強硬な対応を取るよう主張していた[18]。5月2日、ドイツは連合国に対して賠償総額300億金マルクに確定するよう求めたが、フランスとベルギーはこの要求を拒否した[20]。, 5月8日に占領軍はクルップ社の社長や幹部を不服従の罪で訴追し、数ヶ月から20年の禁固刑を科した[21]。5月末にはクルップ社の工場で、占領軍の実力行使による衝突が発生し、13人の労働者が死亡した[21]。抵抗運動全体では250名の死傷者が発生し、占領軍は対抗手段としてルール地方から14万5000人のドイツ人労働者を追放して、ベルギー人・スイス人労働者を導入してこれにかえようとした[21]。, この間にも給料の支払と税収の減少でドイツの財政は破綻し、生産が急減した状況で紙幣が大量に発行された結果、ドイツ経済はハイパーインフレーションへと陥った。1923年1月には1ドル=1万7792マルクのレートであったが、7月には1ドル=35万3410マルク、8月には1ドル=462万455マルク、9月には1ドル=9886万マルク、10月には1ドル=252億6020万3000マルク、11月には4兆2000億マルクに達した[21]。, 占領の解除も行われず、経済情勢も不穏となったドイツは混乱をきたした。6月6日にはザクセン、7月20日にはブレスラウ、7月23日にはフランクフルトなどで争乱事件が起きた[22]。6月7日、ドイツ政府は連合国に対してドイツの支払能力を査定する中立な機関設立を求めた。イギリスとイタリアは妥協的であったものの、フランスとベルギーはあらゆる抵抗の中止が交渉の前提であると拒絶した[23]。イギリスのジョージ・カーゾン外相は6月11日、フランスとベルギーの占領はヴェルサイユ条約違反であるとフランス政府に通告した[24]。カーゾンはさらに7月20日、現状の賠償プランが実行不可能であるとし、アメリカの仲介による中立的な査定機関を設立するべきであるという書簡をフランス政府に送付した[24]。ポアンカレは現状のドイツ経済の混乱はすべてドイツ政府の愚かな行動が原因であるとし、賠償金の減額には一切応じない姿勢を強調した[25]。, 8月11日には社会民主党がクーノ内閣に不信任を突きつけ、クーノ内閣は退陣へと追い込まれた。社会民主党、中央党、民主党、ドイツ人民党は大連立内閣を組織し、グスタフ・シュトレーゼマンが首相となった。財務相となったルドルフ・ヒルファーディングは今後4週間の支出400兆マルクのうち、ルール闘争支援費用が240兆マルクに達すると試算しており、ルール闘争支援はすでに限界に来ていた[26]。シュトレーゼマンは表面上闘争の継続を掲げていたが、冬が始まるまでの継続は不可能であると見ていた[26]。政府の一部にはなおも抵抗継続を主張する声もあったが、9月26日、シュトレーゼマンは国会外交委員会において抵抗運動の終了を宣言することとなった[27]。政府与党はこの表明を支持したが、ドイツ共産党とドイツ国家人民党は反対した[26]。, 受動的抵抗の中止声明は、ドイツ国内に激しい衝撃を与え、さらに政局は混乱した。9月26日にはフリードリヒ・エーベルト大統領が戒厳令を発し、指揮権を国防相に与えた[28]。バイエルン州では右派のグスタフ・フォン・カールが政権を掌握し、共和国保護法を停止するなど、反中央政府的な動きを見せた。これらの動きは11月のミュンヘン一揆につながることになる。しかし一方で11月15日にはレンテンマルクの発行によるデノミネーションを実施し、インフレを沈静化させるのに成功した[26][29]。11月23日、シュトレーゼマン内閣はバイエルン州問題に対する対応などをきっかけに社会民主党が連立離脱したために総辞職している[29]。, 10月23日、アメリカのカルビン・クーリッジ大統領が、自国の専門家を賠償委員会に参加させることを表明した[30]。イギリスとアメリカはフランスの反対を押し切って、賠償策定プロセスにドイツを参加させる方針を決定させた[30]。ポアンカレはなおもルール占領を正当化していたが[19]、11月30日にはついに賠償問題へのアメリカの介入を受諾することになった[19]。, シュトレーゼマン自身は次のマルクス内閣の外相として賠償問題に努力し、賠償金負担を軽減する1924年9月26日のドーズ案を受け入れた。ポアンカレもドーズ案には不服であったが、フランス経済は悪化しており、4月24日に他の連合国とともにドーズ案を受諾した[31]。これ以降、ドイツ経済は相対的安定期を迎えることとなる[32]。ドーズ案の支払開始は1年後が予定されており、占領解除も同時期から開始される予定であった[33]。ポアンカレの保守連合は1924年5月の総選挙で敗北し、6月1日に退陣したが[34]、5月14日にはドイツ政府が義務を遂行すれば段階的に占領を解除するという声明を行った[35]。後継首相のエドゥアール・エリオは個人的にルール占領を国際法違反であると考えていたが、占領継続を主張する右派の世論にも配慮を行う必要があった[36]。ドイツは早期撤退を繰り返し求めたが、エリオはなかなか応諾しなかった。8月16日になってようやく妥協が成立し、フランス軍とベルギー軍は1年以内に撤退を開始することが合意された[36]。8月22日からフランス議会で撤退に関する討議が開始され、フェルディナン・フォッシュ元帥の「ルール占領はフランスの安全保障に全く無関係である」という意見が報告された。8月23日には下院で336対204、8月26日には上院で204対40で撤退が可決され、10月から撤退が開始されることとなった[37]。ドイツ経済は、占領により重い打撃を受けた。, Bundeszentrale für politische Bildung – Kampf um die Republik, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=ルール占領&oldid=71260287. ドイツ国民らが職を失ったのは、ユダヤ人のせい。ドイツの経済が低迷しているのは賠償金を決めたヴェルサイユ体制のせい。ドイツ経済が脅かされそうなのは共産主義のせい。, 多くのドイツ国民から支持を得たヒトラーは、1932年の選挙にてナチ党を第一党にし、1933年には首相に任命されます。同年ヒトラーは全権委任法という、法律を定める立法権をすべてヒトラー内閣に移す法律でした。またナチ党以外の政党を解散させて、一党独裁体制を完成させます。ヒトラー独裁者の誕生です。, 基本的人権、市民の自由、労働組合、思想表現の自由はすべて停止されて、秘密警察・親衛隊らによって監視される社会になってしまいました。そのため多くの人々が海外へと亡命します。, ヒトラーはヴェルサイユ体制の打倒をすぐに実行しようと、1933年に国際連盟を脱退。1935年にはヴェルサイユ条約で禁止されていた徴兵制を復活させて再軍備宣言をしてイギリス・フランスに認めさせます。1936年にはヴェルサイユ条約・ロカルノ条約で禁止されていたラインラントに軍を進駐させました。, イギリス・フランスは、ヒトラーの挑発的な軍事行動に対して、具体的な対抗策を打つことができず黙認となってしまいました。英・仏のナチス・ドイツをある程度認めて平和主義を貫こうとした姿勢を宥和ゆうわ政策と呼びます。結果的にこの宥和政策が、ヒトラーの台頭を促進させて第二次世界大戦の原因となります。, ヒトラーがラインラント進駐する前年の1935年、ムッソリーニはエチオピア侵略を行い、国際連盟から非難され英・仏との戦争危機が高まります。, そこで1936年ムッソリーニは同じ境遇にいたヒトラーに近づき、ベルリン=ローマ枢軸を結成して、互いに連携していくことを表明しました。, 1931年にスペイン王政が倒れた後の権力争いによって、総選挙で勝利した人民戦線派と、フランコ将軍ら軍部が対立しました。, 1936年に軍部がクーデターを起こし、スペイン内戦が始まります。フランコ将軍は、ファシズム体制を目指して、ドイツ・イタリアに支援を依頼。ヒトラー・ムッソリーニがこれに答えました。ベルリン=ローマ枢軸の連携が実現した瞬間です。, このスペイン内戦には、ソ連や外国軍・義勇軍も参戦したため、内戦から戦争へと変化していきました。, フランコは独裁体制を敷いて、第二次世界大戦ではなるべく中立の立場を貫いたので、1975年まで独裁を維持しました。, 1936年、国際的に共産主義が広まり、反ファシズム体制を標榜してきたことに対抗して、日本とドイツは防共協定を結びます。1937年にはここにイタリアも加わり、三国防共協定に拡大。, こうしてドイツ・イタリア・日本という三国枢軸が完成します。第二次世界大戦の開戦後の1940年には、軍事同盟として日独伊三国同盟となります。, 英仏の宥和政策を見たヒトラーは、1938年に同じドイツ系民族が多いオーストリアの併合を強行します。オーストリア国民の多くはウィーンに入るヒトラーを熱狂して迎えました。, また同年、チェコスロバキアのズデーテン地方もドイツ系民族が多いことを理由に、割譲を要求しました。チェコスロバキアはこれを拒否しましたが、ヒトラーは戦争をチラつかせます。, 宥和政策を取りたいイギリス・フランスは、ミュンヘン会談を開き、ヒトラーにこれ以上の領土拡大をしないことを約束させて、ズデーテン地方の割譲を認めました。, このミュンヘン会談では当事者であるチェコスロバキアや、隣国ソ連が呼ばれなかったため、ソ連はイギリス・フランスへの不信感を強めます。, ミュンヘン会談を行ったイギリスのネヴィル・チェンバレン首相の宥和政策は、現在でこそ第二次世界大戦を引き起こしたと批判されていますが、当時の世間の反応はドイツとの戦争を回避した英雄でした。また単純に平和主義をとったというよりも、ドイツのファシズムよりも、ソ連の共産主義の方が脅威だと見ていたのです。, ヒトラーがソ連侵攻を食い止めるヨーロッパの防波堤となった方がマシだと考えていたのです。, ヒトラーはミュンヘン会談後、ズデーテン地方だけに満足することはなく、1939年チェコスロバキアを解体して実質ドイツ支配下に置きます。この知らせにジョゼフ・チェンバレンは激怒。イギリス・フランスは宥和政策を諦め、ドイツとの戦争準備を始めます。, 1939年8月、世界が驚愕したのはドイツとソ連が手を結んだ、独ソ不可侵条約でした。犬猿の仲として知られていた両国が手を結んだのです。, ドイツは英・仏との戦争に備えて、背後となるソ連との戦いは避けたいという思惑が。ソ連は、英・仏が共産主義国であるソ連を警戒していることを感じてドイツとの戦争を避けたかった。両者の思惑が一致した束の間の条約でした。, 背後を刺される心配を無くしたヒトラーは、1939年にポーランドに侵攻。イギリス・フランスがこれに応戦して、第二次世界大戦が始まります。, ▪お問い合わせ ハイパーインフレのドイツ(多額の賠償金) ただでさえ、戦争で生産能力が落ちているドイツなのに、ルール工業地帯まで没収されたら、たまったものではありません。失業者は街にあふれ、物不足ですさまじいインフレに・・・。 第一次世界大戦(フランスとイギリスにお金を貸す) といった順序を … インフレ率の関係が強く結びついている.本論はモデルを通じて,先進諸国の中で日本経 済がデフレ経済からなぜ立ち遅れたのか,名目貨幣供給成長率(ないしは,マネタリー・ ベースの成長率)に関するルールの視点から考察する. 1.はじめに ドイツには「財政の魔術師」という異名を持つヒャルマル・シャハトという人物がいます。彼はドイツのハイパーインフレを収束させたり、ナチス政権下の経済政策を支え、40%あった失業率をほぼ完全雇用水準にした力のある人物です。日本で言えば、世界最速で 執筆者:冨士野喜子(ファイナンシャルプランナー) 2018年9月21日. 2019.06.04 ハイパーインフレとは? 物価が高騰して、お金の価値が著しく低下してしまう現象をハイパーインフレーションと呼びます。. 特に、 1923 年、フランスとベルギーによるルール占領と、これに対するドイツ側の消極的抵抗の結果、 インフレは破局的となった。 絶頂点に達した 1923 年 11 月 の卸売物価指数は、戦前( 1913 年)の 1 . 4 兆倍 に達した。 ドイツ共和国に課せられた1320億金マルクというとても払いきれない賠償金。当然毎年の支払いができるわけもなく、1922年には支払いが滞ります。 インフレとは何のこと?インフレのメリット・デメリット. しかしルール占領によりドイツのインフレは天文学的数字に達し,また a.ヒトラーが 23年 11月にミュンヘン一揆を起すなど政情不安となり,結局アメリカ,イギリスの仲介でドーズ案が成立,ようやく賠償問題も解決してルール占領にも終止符が打たれた。 *画像探しが面倒なので、もしおすすめ挿絵画像あればコメントにurlリンクください!, イタリアは世界恐慌に陥る前のWW1直後から不景気が続いていたので、ファシズムが生まれた時代が早かったのかもしれません。ドイツ・日本でのファシズムの台頭は1929年の世界恐慌後です。. ・フランス軍とベルギー軍、ドイツの賠償金不払いを理由にルール地方を占領 ・インフレ進む。特に8月以降は天文学的数字に ・人員整理令で官吏の20%削減決定 ・バイエルンで非常事態宣言 ・国防軍、各地の武装蜂起を鎮圧 ・ミュンヘン一揆 ・世界史botもやってます:@neta_Sekaishi. ©Copyright2021 Histrace -共通テスト世界史Bを楽しく学ぶ-.All Rights Reserved. ドイツのインフレと言えば、第一次世界大戦の後に、起こったインフレが、大変有名である。戦争中からインフレーションに陥っていたが、戦後、連合国に敗北して、莫大な賠償金を支払わなくてはならなくなり、すぐに支払いを完了することができず、しばらく滞納 スペイン・アメリカ・キューバ戦争(米西キューバ戦争) 4. ルール占領1923年(大正12年)1月11日、フランス・ベルギーがドイツの賠償支払の遅延を理由にルール地方を占領しました。第一次世界大戦で、ドイツは1914…