船中八策(せんちゅうはっさく)は、土佐藩脱藩志士の坂本龍馬が江戸時代末期(幕末)の慶応3年(1867年)に新国家体制の基本方針を起草したとされる伝説。主として歴史小説に登場するが、原本は存在せず、今日では『新政府綱領八策』と『五箇条の御誓文』等を混ぜて作られたフィクションとされる[1][2]。, 慶応3年(1867年)6月、坂本龍馬はいろは丸沈没事件を解決させたのち、京都に上洛していた前土佐藩主の山内豊信(容堂)に対して大政奉還論を進言するため、藩船の夕顔丸で長崎を出航し、上洛中の洋上で参政の後藤象二郎に対して口頭で提示したものを海援隊士の長岡謙吉が書きとめ成文化したとされてきた[1]。, 龍馬伝説では、「船中八策」が「新政府綱領八策」となり、それがさらに「五箇条の御誓文」となって、坂本龍馬の精神が明治維新に生かされたと言うことになっていた。そのため、「五箇条の御誓文」の精神を基にした民撰議院設立建白書や自由民権運動、大日本帝国憲法の制定すら龍馬の思想が基礎となっていると解釈する人もいた[1]。, 一、天下ノ政権ヲ朝廷ニ奉還セシメ、政令宜シク朝廷ヨリ出ヅベキ事。 船中八策とは (坂本龍馬 出典:Wikipedia) 船中八策とは、 1867 年(慶応 3年 )に坂本龍馬がまとめた8箇条から成る新国家構想のことです。 船中八策は、坂本龍馬が長崎を出発して上京している間の船の中で後藤象二郎に伝えたものです。 一、御親兵ヲ置キ、帝都ヲ守衛セシムベキ事。(御親兵の設置) 新しい国の姿を掲げた坂本龍馬。その思想は誰の影響で形成され、いかに日本を変えたのか。龍馬像、維新像を根本から覆す驚愕の書。 一、海軍宜シク拡張スベキ事。 船中八策と坂本龍馬. 龍馬の「八策」 松浦光修. 一、外国ノ交際広ク公議ヲ採リ、新ニ至当ノ規約ヲ立ツベキ事。 デジタル大辞泉 - 船中八策の用語解説 - 慶応3年(1867)坂本竜馬が起草させた新国家構想。長崎から上洛中、土佐藩船中で後藤象二郎に示したものとされ、朝廷への政権奉還、二院制議会の設置、外国との不平等条約の改定、憲法の制定、海軍の拡張など8か条からなる。 ^ 俗称の船中八策は大正時代に考案された諸説があり、坂本龍馬が起草する前に他の人が起草したという諸説もある ^ 松浦 2008, p. 145 ^ 『「坂本龍馬」の誕生 船中八策と坂崎紫瀾』知野文哉 ^ 松浦 … 一、御親兵ヲ置キ、帝都ヲ守衛セシムベキ事。 新政府綱領八策(しんせいふこうりょうはっさく)は、坂本龍馬が慶応3年(1867年)11月に示した維新後新政府設立のための政治綱領である。 現在龍馬自筆本が2枚残っており、国立国会図書館と下関市立長府博物館に所蔵されている。 内容 一、外国ノ交際広ク公議ヲ採リ、新ニ至当ノ規約ヲ立ツベキ事。(不平等条約の改定) はじめに 3; 第一章 龍馬の青春 嘉永六年―文久元年; 1 嘉永六年九月二十三日 坂本八平あて 16; 2 安政三年九月二十九日 相良屋源三郎あて 18; 3 (推定)安政五年七月頃 乙女あてか 20; 4 安政五年十一月十九日 住谷信順・大胡資敬あて 22 【日米修好通商条約とは】簡単にわかりやすく解説!!不平等な内容・影響・語呂合わせなど. 船中八策とは何か? 「船中八策」・・・・それは幕末の英雄「坂本龍馬」が、明治維新の前年である1867年に、前土佐藩主「山内容堂」に「大政奉還」を進言するために乗っていた船の中で、「後藤象二郎」に語る形で、作り上げた新国家への基本方針のことです。 「船中八策」は、高知県佐川町の蔵元、司牡丹(つかさぼたん)酒造が醸す超辛口の日本酒です。酒名は、土佐出身の幕末の志士、坂本龍馬が示したという新しい国家の構想『船中八策』からつけられました。愛飲家から熱烈な支持を集める「船中八策」の魅力を紹介します。 日本の重要な転換点である条約日米修好通商条約。 しかし、この条約はしっかり内容まで覚えなければいけない面倒な条約でもあります。 今回はそんな日本を大きく動かした条約『日米修好通商条約』についてわかりやすく解説していきます。 日米修好通商条約とは (日米修好通商条約 出典:Wikipedia)... 約260年間続いた太平の世である江戸時代がわずか10年ちょっとで明治時代に変わった理由が尊王攘夷という考え方にあります。 そして、この短い期間に目まぐるしく様々な出来事が起こるので、知識が混ざってしまいやすいです。 本日は、そのような重要で間違えやすい『尊王攘夷』について簡単にわかりやすく解説... 坂本龍馬によって『薩長同盟』が結ばれます。 この同盟によって倒幕運動は加速していき、ついには幕府が滅亡することになります。 今回は、そんな薩長同盟についてわかりやすく解説していきます。 薩長同盟とは 薩長同盟とは、1866年(慶応2年)に長州藩と薩摩藩の間で交わされた同盟のことです。 ... 皆さんも、一度は学校の教科書などで大政奉還の絵を見たことがあるかもしれません。 「大きな屋敷に一人だけで座っているのが徳川慶喜」「手前側にたくさんのえらい武士たち」。 大政奉還は徳川家康以来、ずっと続いてきた江戸幕府がなくなる瞬間でもありました。 今回は大政奉還の全容、そして徳川慶喜のその後... 今から150年前の1868年、京都周辺は緊張状態にありました。 王政復古の大号令やその後の小御所会議の決定に納得がいかない旧幕府の軍勢が京都に迫りつつありました。 迎え撃つは薩摩・長州を主力とした新政府軍。まさに、戊辰戦争最初の戦いである鳥羽伏見の戦いが行われようとしていたのです。 今回は、... 1868年(慶応4年)日本は江戸幕府が滅亡したことによって、天皇中心による政治を目指して薩摩藩と長州藩が政権を握ることになりました。 その時、今後こうやって政治を進めていくことを書いた文章がありました。 それが五箇条の御誓文です。 今回はそんな明治新政府の目標が記された『五箇条の御誓文』につ... 一、上下議政局ヲ設ケ、議員ヲ置キテ万機ヲ参賛セシメ、万機宜シク公議ニ決スベキ事。(, 一、有材ノ公卿諸侯及ビ天下ノ人材ヲ顧問ニ備ヘ官爵ヲ賜ヒ、宜シク従来有名無実ノ官ヲ除クベキ事。(, 【天保の改革とは】簡単にわかりやすく解説! 維新八策(案) 日本再生のためのグレートリセット これまでの社会システムをリセット、そして再構築 給付型公約から改革型公約へ ~今の日本、皆さんにリンゴを与えることはできません。リ ンゴのなる木の土を耕し直します~ 大阪維新の会 1867年6月9日、坂本龍馬と後藤象二郎は長崎から兵庫へと向かう船に乗っていました。 京都では15代将軍・徳川慶喜、伊達宗城、島津久光、松平春嶽、山内容堂による四候会議が開かれており、そこに参加していた山内容堂に後藤象二郎が呼ばれていたから… 坂本龍馬が同船する後藤象二郎に語ったとされる新しい国の仕組み、構想が船中八策と呼ばれるものです。この船中八策のアイデアを後藤象二郎が山内容堂に進言したことで大政奉還が現実のものとなりま … 一、金銀物貨宜シク外国ト平均ノ法ヲ設クベキ事。(金銀の交換レートの変更), 理由は坂本龍馬が暗殺されてしまうからです。しかし、この船中八策の考え方は明治時代につながりました。, 特に、坂本龍馬は外国の技術の高さを認めており、日本は海外から学ぶべきだとして、知識を世界に求めることが五箇条のご誓文の中に組み込まれていました。, そして、平和を愛する坂本龍馬らしく戦争では無く話し合いで物事を決めていくという内容も作られていました。, そして、最後まで坂本龍馬が心配していた日米修好通商条約の不平等な部分に関しては、坂本龍馬の弟分とも言える、坂本龍馬が認めた、陸奥宗光が領事裁判権の撤廃に成功しています。. 坂本龍馬の偉業の中に、新しい政府の 政策要領の元となったと言われている 船中八策 . !内容や目的・影響・その後など【まとめ】. 龍馬が提案した船中八策に基づいて将軍・徳川慶喜に対する大政奉還論を提議した。 しかし、大政奉還論は龍馬が考え出したものではなく幕閣の大久保一翁が勝海舟に指示した案であるとされているが、幕府内では一蹴された。 船中八策(せんちゅうはっさく)は、土佐藩脱藩志士の坂本龍馬が江戸時代末期(幕末)の慶応3年(1867年)に新国家体制の基本方針を起草したとされる伝説。主として歴史小説に登場するが、原本は存在せず、今日では『新政府綱領八策』と『五箇条の御誓文』等を混ぜて作られたフィクションとされる 。 以上八策ハ方今天下ノ形勢ヲ察シ、之ヲ宇内万国ニ徴スルニ、之ヲ捨テ他ニ済時ノ急務アルナシ。苟モ此数策ヲ断行セバ、皇運ヲ挽回シ、国勢ヲ拡張シ、万国ト並行スルモ、亦敢テ難シトセズ。伏テ願クハ公明正大ノ道理ニ基キ、一大英断ヲ以テ天下ト更始一新セン。, など、当時としては画期的な条文が平素な文章として記されている。 坂本竜馬と同じ土佐の生まれで、海兵隊員でもあった石田英吉(いしだえいきち)の持っていた文書。英吉の子孫により国立国会図書館憲政資料室に寄贈されました。「新政府綱領八策」を含む「亡友帖(ぼうゆうちょう)」など22点があります。 坂本龍馬は福沢諭吉のような知識人でもないのになぜ船中八策のようなことを考えられたんですか? 交友のあった勝海舟、大久保一翁、松平春嶽、横井小楠、jinセンセからの受け売りでしょう。でも、それ … 龍馬と交流のあった勝海舟、大久保一翁の影響、福井藩の政治顧問であった横井小楠からの影響も指摘されている。また由利公正や上田藩士の赤松小三郎、真木保臣(久留米水天宮宮司、久留米藩士)が1861年(文久元年)に著した『経緯愚説』から影響を受けたとする説もある。, 8番目の経済政策は、海援隊を組織して貿易を行なっていた龍馬らしい着眼点といえる(金銀の交換レートが国内と国外で異なっていると、二国間で金銀の交換を行なうだけで利益を上げられるので、貿易や物価安定に好ましくない)。, この『船中八策』が事実であるとするならば、薩土盟約や土佐藩の大政奉還建白書、五箇条の御誓文にまで連なる内容を持ち、卓越した考え方であるとされてきた[3]。, 最新の研究においては、坂本龍馬の新国家構想が後世に作為されたフィクションであると作家の知野文哉は指摘している。 龍馬伝を世に出した嚆矢『汗血千里の駒』の著者坂崎紫瀾が著した土佐勤王党に関わる『維新土佐勤王史』等の一連の著作、および瑞山会によってまとめられた『坂本龍馬傳艸稿』を素材にして、偶像としての「坂本龍馬」が誕生したと論じている。 龍馬たちが京へ向かう船の中で日本の未来を考えた八策が 銘柄名になった土佐の入手困難な人気地酒です。 高知県といえば、日本が近代国家へと変貌を遂げた明治維新に数々の逸材を輩出したことで知られ … 一、古来ノ律令ヲ折衷シ、新ニ無窮ノ大典ヲ撰定スベキ事。 その理由は様々ありますが、幼少期には落ちこぼれと言っても過言ではない人物だったにもかかわらず日本のことを考え、自分の私利私欲では無く様々な偉業を成し遂げたことも坂本龍馬のファンを作る理由の一つです。, 今回は、そうした坂本龍馬が考え出した『船中八策(せんちゅうはっさく)』について、わかりやすく解説していきます。, 船中八策とは、1867年(慶応3年)に坂本龍馬がまとめた8箇条から成る新国家構想のことです。船中八策は、坂本龍馬が長崎を出発して上京している間の船の中で後藤象二郎に伝えたものです。, 中身は、大政奉還、海軍拡張、公議政体、親兵設置、法典制定、幣制改革など集権的な統一国家を構想するための内容が書いてありました。, これまで、強い大国だと思っていた中国はアヘン戦争の結果、イギリスに支配され植民地化され酷い状態だったため、日本も同じ状況にならないように鎖国政策を緩め、ついに開国に踏み切ります。, しかし、貿易などはおこなっておらず、ただ開国をしただけの状態でした。そこで、アメリカ総領事のハリスと江戸幕府大老の井伊直弼との間で、1858年に日米修好通商条約が締結されます。, まず、関税自主権がないので、外国製の安い商品が大量に日本に入ってきており日本の産業は打撃を受けます。また、領事裁判権を認めているため外国人が日本で罪を犯すことが増え、治安が悪化していきました。これらが、不平等と言われ批判される大きな内容です。, しかし、坂本龍馬は別のことを考えていたと言われています。坂本龍馬の注目したことは、開港した港です。, 日米修好通商条約で開港した港に日本地図で印をつけてみるとわかりやすいです。なんと、日本が江戸を中心に包囲されるように開港しているのです。, ここから、アメリカを始め、列強の国々は日本を植民地にするために日米修好通商条約を結んだのではないかと疑うのです。, 日本が大混乱になってしまったのはアメリカとの間で日米修好通商条約を結んだからである。このような不平等な条約を結ばせてきた外国人を追い出せという攘夷の動きに発展するのです。, また、この条約は天皇の許可を得ずに結ばれた条約であり天皇の意見を無視したものだとして天皇を大切にしようと考える尊皇の考え方が生まれます。, しかし、外国のピストルが日本に入ってくると戦いの方法が変わると砲術を学び始めるのです。, このような頭の良い人であり外国の技術の高さを認めていた坂本龍馬なので、尊皇攘夷が上手くいかないことを見越していました。, 坂本龍馬は、倒幕の流れを読み、薩摩藩の西郷隆盛と長州藩の木戸孝允との間の口約束を取り付けます。これは、正式な書面などは無く、坂本龍馬の朱文字が残っていたことと木戸孝允から坂本龍馬に手紙が残っていたことで証明されました。, 朱文字とは、坂本龍馬が二人のやり取りを見ており証明しますという内容のものです。これにより、薩長同盟が結ばれ倒幕へと向かいます。, 坂本龍馬はなぜ、薩長同盟を結ぶことに奔走したのかというと、大政奉還を実施するためだと言われています。, その証拠に坂本龍馬は薩長同盟が作られた後に、敵であるはずの幕府のもとへ向かい徳川慶喜と謁見しています。, 徳川慶喜に幕府と薩長同盟との戦いが始まってしまうので大政奉還をおこなうように説得していたのです。, では、なぜ説得をしていたのかというと、先ほどの日米修好通商条約の開港した港から欧米に日本が狙われていると考えたからです。, その後に欧米から攻められた場合に対処ができなくなってしまいます。だからこそ、坂本龍馬は日本国内での戦争を終わらせたかったのです。, しかし、それに対して薩長同盟側は、王政復古の大号令を発しています。これには、幕府側の人間も我慢ができず結果として戊辰戦争が起きてしまいます。, 一、天下ノ政権ヲ朝廷ニ奉還セシメ、政令宜シク朝廷ヨリ出ヅベキ事。(大政奉還について) 船中八策(せんちゅうはっさく)とは。意味や解説、類語。慶応3年(1867)坂本竜馬が起草させた新国家構想。長崎から上洛中、土佐藩船中で後藤象二郎に示したものとされ、朝廷への政権奉還、二院制議会の設置、外国との不平等条約の改定、憲法の制定、海軍の拡張など8か条からなる。 坂本龍馬の「船中八策」とは、 大政奉還の元になったもの。 明治新政府の政治の方針の元になったもの。 といえます。坂本龍馬というと、「薩長同盟」でかなり知られていると思いますが、実は現在の日本にとても大きな影響を与えた人なんです。 龍馬が船で考えたという建議案・船中八策も、知野(ちの)文哉著『「坂本龍馬」の誕生』によると、原本も写本もなく、書物によってばらばら。 明治以降に書かれた龍馬の伝記の中で作られた虚構 と考え … を考案したという話があります。 ※ 諸説ありますが・・・ 長崎から京都に向かう船の中でアイデアを 提示し、のちに成文化された船中八策は、 1.大政奉還 これが船中八策といわれる。後藤はこれを前・土佐藩主山内容堂(やまうちようどう)に進言し、容堂が15代将軍徳川慶喜(よしのぶ)に大政奉還を建白し、これを慶喜が受け入れ、10月14日に政権を朝廷に奉還した。 謎多き龍馬の死. 一、金銀物貨宜シク外国ト平均ノ法ヲ設クベキ事。 全書簡現代語訳 坂本龍馬からの手紙 目次. 一、古来ノ律令ヲ折衷シ、新ニ無窮ノ大典ヲ撰定スベキ事。(憲法制定) 坂本龍馬が船中八策を西郷隆盛に提示した際、「わしは世界の海援隊をやります」と発言した場に同席し非常な感銘を受け、後世ことあるごとに回想を語ったとされている。 高知の坂本龍馬像を訪れた李登輝(手前右)と夫人の曽文恵(同左)=2009年9月6日 「総統の在任中はもちろん、退任してからもしばらくは誰にも言わなかったけどね、台湾の民主化と政治改革には坂本龍馬の『船中八策』が大きく影響したんだ」 一、海軍宜シク拡張スベキ事。(海軍力の増強) 15代将軍・徳川慶喜、伊達宗城、島津久光、松平春嶽、山内容堂による四候会議が開かれ、山内容堂に後藤象二郎が呼ばれていました。そこに向かう船内で坂本龍馬が後藤象二郎に提示したと言われている政治網領が「船中八策」になります。 龍馬は、前土佐藩主である山内容堂に大政奉還論を進言するため、長崎から兵庫へ向かう船の上で後藤象二郎にこの案を提示した。それを海援隊士・長岡謙吉が書きとめ、のちに成文化したものが「船中八策」とされている。 一、上下議政局ヲ設ケ、議員ヲ置キテ万機ヲ参賛セシメ、万機宜シク公議ニ決スベキ事。(上下両院の設置による議会政治について) 一、有材ノ公卿諸侯及ビ天下ノ人材ヲ顧問ニ備ヘ官爵ヲ賜ヒ、宜シク従来有名無実ノ官ヲ除クベキ事。(有能な人材の政治への登用) 一、有材ノ公卿諸侯及ビ天下ノ人材ヲ顧問ニ備ヘ官爵ヲ賜ヒ、宜シク従来有名無実ノ官ヲ除クベキ事。 一、上下議政局ヲ設ケ、議員ヲ置キテ万機ヲ参賛セシメ、万機宜シク公議ニ決スベキ事。 また、「船中八策」なる言葉が登場するのは大正時代に入ってからであり、それ以前の「船中八策」は様々な別の名称や内容で紹介されている[1]。, この「船中八策」には長岡謙吉が書き留めたとされる長岡自筆の書面は残っていない[4]が、坂本龍馬は大政奉還後の11月に船中八策と内容が共通している「新政府綱領八策」と呼称される新政権の構想を複数自筆しており、これについては龍馬自筆のものが2枚現存している(国立国会図書館と下関市立長府博物館)。, また、この書面が船中八策とどのような関係にあるものかについても諸説がある。菊地明は「新政府綱領八策」が龍馬から後藤象二郎に示された八策の原案であり、文書の11月という日付は作成日ではなく筆写日だと推測している。青山忠正は龍馬が手紙の中で近世に定型的だった書簡用の文体(候文)を正確に用いないことから、龍馬が抽象的な概念を駆使する能力がなかったという見解を示し、龍馬自筆原本が現存している「新政府綱領八策」までも、前述の理由から龍馬の案とは考えにくいと推測している。, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=船中八策&oldid=81190508. 1867年6月には、長崎から上京する船中で、大政奉還につながる「船中八策」(せんちゅうはっさく)をまとめました。同年11月、中岡慎太郎(なかおかしんたろう)と共に京都で暗殺されました。