龍馬は、おおらかでありながら、大変筆まめでユーモアに富んだ人柄であることが、姉の乙女などに出した手紙からわかります。 龍馬はよく手紙を書いていたようで、彼の自筆であるという手紙は数多く残っています。そしてその多くは、土佐にいる龍馬の実の姉・坂本乙女(さかもとおとめ)に宛てられた手紙です。 文久3 … 坂本龍馬。幕末の志士中の志士。しかし、この英雄は自身の姉・乙女さんに対してはものすごい甘えん坊だった。その甘え方が面白い。乙女姉さんを懸命におだてながら甘える… 坂本龍馬の妻の名は、お龍といい、龍馬が仲の良かった姉乙女に宛てた手紙では、「おもろしき女」「とっぴな女」「げにもめづらしき人」と紹介されている。 坂本 龍馬(さかもと りょうま、天保6年11月15日〈新暦・1836年1月3日〉 - 慶応3年11月15日〈新暦・1867年12月10日〉)は、江戸時代末期の志士、土佐藩郷士。 坂本乙女 宛(姉乙女に千葉佐那を紹介)原文此はなしハまづ々人にゆハれんぞよ。すこしわけがある。長刀順付ハ千葉先生より越前老公へあがり候人江、御申付ニて書きたるなり。此人ハおさなというなり。 〔016手紙〕慶応元年九月七日坂本権平、乙女、おやべあて坂本龍馬九月六日朝、はからず京師寺町ニ川村盈進(えいしん)入道ニ行合、幸御一家の御よふす承り御機嫌宜奉二大賀一候。二(つぎ)ニ私共初(はじめ)、(高松)太郎無二異儀一憤発出勢(精)罷在、御安慮奉レ願候。 底本:「龍馬の手紙」宮地佐一郎、講談社学術文庫、講談社 2003(平成15)年12月10日第1刷発行 2008(平成20)年9月19日第7刷発行 ※底本手紙の写真のキャプションに、(京都国立博物館蔵)とあ … 坂本 乙女(さかもと おとめ、1832年 2月2日(天保3年1月1日) – 1879年(明治12年)8月31日)は、江戸時代末期(幕末)から明治時代にかけての女性。 土佐藩 郷士 坂本八平と幸の三女。 弟に坂本龍馬がいる。. 龍馬の残した手紙の中でももっとも異色で、そして最も有名な手紙と言っても過言ではありません。 慶応ニ年、この年二月に薩長同盟を成し遂げた龍馬は、その直後に寺田屋で幕府に襲われ負傷します。 特に有名なのは、「今一度日本をせんたくいたし申候」の手紙ですが、お龍と共に刀傷を癒すため鹿児島へ訪れた時の手紙や、勝海舟の門人となり、可愛がってもらっていることを綴った通称「エヘンの手紙」と呼ばれるものなど、重要な出来事は乙女に伝えています。龍馬にとって乙女は、いちばんの理解者だったのかもしれません。, そして慶應3年(1867)11月15日、乙女は暗殺という形で、大切な弟を失います。それから12年後の明治12年(1879)、乙女は壊血病にかかって亡くなりました。晩年は独と改名し、のちに北海道北見市の開拓に従事する坂本直寛と共に暮らしていました。, 龍馬が亡くなった後、坂本家に身を寄せたお龍とは不仲だったといわれていましたが、最近の史料では、乙女はお龍に対しても親身に接していたことが明らかになっています。龍馬が頼ったお姉さんなら、そのほうが想像つきますよね。 坂本龍馬の姉「乙女」の身長や体格についての逸話. 文久元年10月14日付田中良助宛(高知 田中信栄氏蔵) 3. 特に、姉への屈託のない手紙からは、坂本龍馬のユーモアのようなものも感じられ、坂本龍馬の周りに人々が集まってきた理由を垣間見た気持ちになります。 ただ、本書は読み物というよりは、あくまでも坂本龍馬の書簡を集めた資料集です。 文久3年5月17日付坂本乙女宛(宮内庁三の丸尚蔵館蔵) 5. 坂本龍馬の手紙 「竜馬の手紙競売に」(7月9日東京、読売、地方紙朝刊及び10日昼NHK)、「竜馬の手紙1633万円」(7月13、14日東京、朝日、日経、地方紙朝刊)と報道された龍馬の手紙は、7月11日の明治古典会七夕古書大入札会に出品されました。 龍馬の名言を代表する有名な言葉です。 これは龍馬が姉の乙女に送った手紙の中の一部で語られた言葉と言われています。 この名言の意味は? 原文を多少の解釈を入れて意味を説明すると、「日本は6回の戦いをしているが利益は出ておらず、 2 坂本龍馬書簡(真物)文久3(1863)年秋頃 姉 乙女、姪 春猪宛 3 坂本龍馬書簡(複製)〈同盟裏書〉慶応2(1866)年2月5日 木戸孝允宛 4 ピストル① スミス&ウエッソンⅡ型 32口径 有名な坂本龍馬の名言の1つですね。こちらは龍馬が文久3年(1863)に姉の乙女あてに送った手紙の中で使われた表現です。龍馬が勝海舟の弟子入りして、神戸の海軍塾を創設に向けて実務を担当しはじめたころに送られてものになります。 申し候 読み方・意味 坂本龍馬が姉の乙女に送った手紙の中に、こんな一節があります。 「天下無二の軍学者勝麟太郎という大先生に門人となり・・・・・・」 勝麟太郎かつりんたろうとは、 咸臨丸かんりんまるでの太平洋横断や江戸無血開城で有名な 勝海舟のことです。 現在、坂本龍馬が書いたとされる手紙は数多く残っていますが、中でも乙女姉さんに宛てたものは多く、有名な「日本を洗濯いたし候」の手紙も乙女姉さんに宛てに書かれたものです。 龍馬に頼りにされていた人物ですね。 文久3年3月20日付坂本乙女宛(京都国立博物館蔵) 4. 龍馬の手紙「日本を今一度せんたくいたし申候事」 インターネットの電子図書館、青空文庫のサイトをウロウロしていると、時々面白い文章に出くわします。 ここ最近で面白いと思ったのは、「最新公開作品」のコーナーで発見した 坂本龍馬の手紙 です。 坂本龍馬自身が姉に送った手紙の中で抜いてしまったことを書き示していたそうです。 実はここに訪れた坂本龍馬は妻おりょうと一緒にこの山を登り、ここだけでなく霧島周辺を堪能していたんだとか。 歴史上の偉大なお姉さんのひとり、坂本龍馬の姉、乙女。体格が大きかったことから坂本家の仁王と呼ばれ、亡き母に代わって弱虫だった龍馬を鍛えました。龍馬から乙女に宛てた手紙を見ても、龍馬が頼りにしていただろうことが想像されます。今回はそんな日本一頼れるお姉さん、坂本乙女についてご紹介します。, 龍馬には兄・権平と3人の姉(千鶴・栄・乙女)がいました。権平や千鶴たちとは親子ほども歳が離れていたため、3歳上の乙女とはよく遊んでいたそうです。ちなみに本来の名前は留(とめ)で、「乙女(をとめ)」は「お留」の当て字になります。, 身長5尺8寸(約174cm)、体重30貫(約112kg)という、当時はもちろん、現代でも大柄といえる乙女。性格もからりとしていて男勝り、泣き虫だった龍馬がまわりの子どもたちにいじめられ、泣いて帰ってくるのを「それでも男かね!」と悔しがったそうです。, 炊事、洗濯、裁縫などは苦手だったようですが、学問や武芸、絵を描くことが好きだったそう。とりわけ遊芸は得意で、三味線や舞踊、謡曲、義太夫までこなしたとか。 宮地佐一郎 龍馬の手紙(坂本龍馬全書簡・関連文書・和歌詠草) かの有名な「日本を今一度洗濯いたし申し候」の文言を含む姉・乙女宛書簡全文などの肉筆原文写真版や、その読み下し文などの第一次史料を網羅した、龍馬・幕末維新史ファン必携の名著。 龍馬はこの手紙で乙女姉さんに千葉佐那に恋をしたことを赤裸々に語ります。 そして男勝りで武芸に秀でた乙女姉さんとかつて同じ名前であり、更には同じく武芸に秀でていると伝えることで乙女姉さんの共感を得ようとしています。 そんな龍馬とお姉さんとの手紙、国の重要文化財に指定されているものもあります。 京都国立博物館に収められていますね。 京博のHPではこのようにして手紙を見ることができます( 坂本龍馬 で検索すれ … 文久3年6月16日付池内蔵太の母宛(高知 青山文庫蔵) 6. 文久元年9月13日付平井かほ宛(「関係文書第一」、勤王事蹟調) 2. 歴史上の偉大なお姉さんのひとり、坂本龍馬の姉、乙女。体格が大きかったことから坂本家の仁王と呼ばれ、亡き母に代わって弱虫だった龍馬を鍛えました。龍馬から乙女に宛てた手紙を見ても、龍馬が頼りにしていただろうことが想像されます。今回はそんな日本一頼れるお姉さん、坂本乙 … そんな偉大なお姉さんだったからこそ、龍馬が時代を動かすまでの人に育ったのかもしれません。, 関連記事 坂本龍馬の3歳年上の姉である「乙女」ですが、女性の平均身長が145㎝前後とする時代に、175㎝の長身と100㎏を超える大柄な体でした。 性格は男勝り。 坂本龍馬 おとめさんにさし上る。 兼而 ( (かねて) ) 申上妻龍女ハ、望月亀弥太が戦死の時の なん ( (難) ) にもあい候もの、又御国より出候もの此家ニて大ニセ話ニなり候所、此家も国家をうれへ候より家をほろ こし ( (ママ) ) 候也。 では話を本題に戻し、龍馬の手紙を見てみましょう。 2 龍馬の残した手紙 龍馬が実際に書いたと伝わる手紙は、2017年に新たに発見されたものを含めて約140通で、姉の乙女や志士たちに宛てたものの多くが現存しています。 母の幸が弘化3年(1846)に亡くなると、龍馬の母親代わりをつとめます。剣術や馬術などの武芸から水練、和歌や書道などを教え、龍馬が患っていた夜尿症まで治してしまったそうです。そんなお姉さんのおかげで龍馬は丈夫に育ちます。, それは乙女と龍馬が継母の実家・川島家に遊びにいった時のこと。川島家の長女・喜久に長刀の稽古をつけていた乙女が、長刀を振り回した拍子に乙女の毛ぶたが飛んでしまうハプニングがあったとか。毛ぶたとは今でいうヘアピースのようなもので、乙女は髪が薄かったそうです。そんな状況でも、乙女は慌てることなく、「毛ぶたが飛んだきに」と言って、髪をなおしてから稽古を再開したといわれています。, また、藩主が馬に乗って駆ける武士たちを観覧する、土佐藩の正月行事「お馭初め」では、幕末になって掟がゆるみ、武士だけでなく医者や学者も参加を許されたのを機に、乙女も参加したなんていう逸話まであります。, そんな乙女に縁談があったのは、安政3年(1856)。お相手は典医の岡上樹庵です。当時の結婚適齢期が14〜5歳だったことを考えると、20代も半ばの乙女は晩婚だったようです。結婚して赦太郎と菊栄をもうけますが、慶応3年(1867)に離婚し、実家に戻ります。原因ははっきりしていませんが、家風の違い、夫の暴力や浮気ともいわれています。, 龍馬の手紙は現在140通余り確認されていますが、その中で最も多いのは乙女宛です。 これは龍馬が残した和歌です。 「世の中の人は自分のことを何と言ってもいい 自分がすることは自分だけが知っている」 というような意味だそうです。 この歌は、まだ龍馬が土佐にいた16歳頃に詠まれたと言われています。 その当時からすでに自分のスタイルを確立していたのかもしれません。 その後19歳にして江戸へ剣術修行へ出た龍馬は、 時代の混乱を肌で感じることとなります。 その先の時代を読んで行動した龍馬ですから、 周りの人間たちから理解を得ることが難しい場面もあったと思います。 そし … 2010.09.24 2016.03.17 国語&入試国語. 1. 【 大河ドラマ「西郷どん」時代考証・大石先生に聞いた 】西郷隆盛と坂本龍馬はどう違う?, 新連載!歴史作家・山村竜也の【 風雲!幕末維新伝 】第1回「坂本龍馬暗殺の犯人はこの男だ!」, 【 大河ドラマ「西郷どん」時代考証・大石先生に聞いた 】西郷隆盛と坂本龍馬はどう違う?. 坂本龍馬の手紙139通(現代翻訳文) 手紙名称 宛先 坂本八平(父)宛(最古の手紙) 相良屋源之助 宛 坂本乙 […] 日本の歴史ガイドでは日本の城・史跡・銅像(アクセス・地図・場所)をご紹介。 戦図(複製), 坂本龍馬書簡(複製)慶応2(1866)年12月4日 姉 乙女宛, 坂本龍馬書簡(真物)慶応2(1866)年12月4日 権平・一同宛, 坂本龍馬書簡(真物)慶応3(1867)年4月7日 姉 乙女宛, 坂本龍馬書簡(真物)慶応3(1867)年6月24日 兄 権平宛, 坂本龍馬書簡(真物)慶応3(1867)年10月13日 後藤象二郎宛草案, 坂本龍馬書簡(真物)慶応3(1867)年11月 後藤象二郎宛草案, 新政府綱領八策(複製)慶応3(1867)年11月初め, 坂本龍馬書簡(真物)慶応3(1867)年11月13日 陸奥宗光宛, 血痕のついた貼交屏風(複製), 館所蔵龍馬書簡真物展示スケジュール. 新連載!歴史作家・山村竜也の【 風雲!幕末維新伝 】第1回「坂本龍馬暗殺の犯人はこの男だ!」 坂本龍馬の手紙は、今現在139通確認されています。最近では、テレビ番組の中で暗殺直前に書いたと思われる手紙の草稿が見つかり話題になりましたね。手紙が多く残っている坂本龍馬ですが一番多いのは姉の坂本乙女宛で、他に桂小五郎なども多く手紙を受け取っています。 鹿児島県の霧島は、負傷した坂本龍馬が傷の手当ても兼ね妻のお龍さんと一緒にやって来た場所。その時に二人は高千穂峰に登り、山頂の天の逆鉾を二人で引っこ抜いたと言うエピソードは、龍馬が姉に送った手紙に今も残り有名ですね。そしてこれが日本で最初の新婚旅行とも言われています。 乙女姉さんあてに、全部で138通の手紙を送ったと言われています。 4 龍馬の手紙 1866(慶応2)年12月4日 坂本乙女あて. 私手紙ハ必ず/\乙姉さんの元に御納め可被遣候。 龍馬 御一同様 一、今春上京之節伏見にて難にあい候頃より、鹿児嶋に参り八月中旬より又長崎に出申候。