日本人奴隷も運ばれたという イエズス会 東インド 巡察師の肩書を持ち、日本に3年滞在したアレッサンドロ・ヴァリニャーノはフィリピン総督に書簡で「日本人は非常に勇敢で、しかも絶えず軍事訓練を積んでいるので征服できない。 「コルテスのメキシコ征服―それにともなう略奪行為―は、スペインのエリートたちは, 費用のかさむ戦争を次々と仕掛けていった」。 ヴァリニャーノは、天正八年(一五七九)に来日して、, 日本各地にセミナリヨ(神学校)を設立し、日本人を教育して司祭を養成しようとしていた。, 『世界史の誕生』のなかで岡田英弘氏は、 その他にも著者のルシオ・デ・ソウザは、 「まず有名なコロンブスの西まわり航路が開拓され、そしてヴァスコ・ダ・ガマの東まわりの, さらに山本七平氏は、「ポルトガル船は日本に何をもたらしたのか」という質問に対して、, と答えている。 平凡なタイトルの本から思いがけない物語が浮上してくることがある。本書『移民と日本人』(無明舎出版)もその一例だ。副題に「ブラジル移民110年の歴史から」とあるように、明治以降のブラジル移民を扱ったものと思いきや、意外な話が出てきて驚く。 端的にいえば、マルティン・ルターらの宗教改革に対抗し、イエズス会を結成したもので、, イエス・キリストの伴侶として神のために働く聖なる軍団となることを目標としている。 「ヨーロッパのばあい、土地が不毛であるために、農業をおぎなう牧畜が主産業となった。, そこから外へ出て、フロンティアを見出し、テリトリー(領主)を拡大するかたちで繁栄する。, 〈外に進出する力〉の西ヨーロッパ、そしてそのヨーロッパのニューフロンティアとしての, アメリカ文明にあっては、技術革新(イノベーション)は外に出てゆくための交通、輸送、, といった分野において発達する。当然、攻撃に強い」。 17世紀~18世紀にいたり、長く続けられた黒人奴隷を商品とした奴隷船の罪深い歴史が今あきらかに。 船内の劣悪な環境から不当な待遇についての黒人たちの反乱、黒人に対する宗教的差別意識、奴隷解放に至るまでの凄惨な恐怖の歴史を皆様に詳しくご紹介します。 と述べている。ちなみにキリシタン大名は、, 大友宗麟、大村純忠、有馬晴信、高山右近、黒田考高(如水)、小西行長。 ヨハネ 福音書 8:33-35. と述べている。 日本中世史が専門の神田千里氏が『戦国と宗教』のなかで、 そして、 「アリストテレスの『政治学』第一巻で展開されている『先天的隷説』を, 後のヨーロッパ列強による植民活動を思想的に支配しつづけることとなった」。 「創設者ロヨラが生涯を賭けて完成にいそしんだ『霊操』『イエズス会会憲』を, イエスの軍団として集っているのがイエズス会なのである」。 「長崎が『真宗王国』のようになることを恐れただけでなく、, この上下が連携して政治勢力となるのを恐れた」。 では、何故、キリスト教徒(イエズス会など)が奴隷貿易を積極的に肯定して行っていたのか。, 『人身売買・奴隷・拉致の日本史』のなかで渡邊大門氏は次のように述べている。 南蛮貿易で奴隷売買されていたから弥助もそうだけど。 自分は、逆に日本人奴隷の方が気になる。 どこへ売られて、どこで生活をしていたんだろう?って。 ほんと、その後の話を知りたいよね。 として、 そして黒人を奴隷とする事を定めた悪名高い南アフリカのアパルトヘイト法を起草したのがスコットランド銀行であった。 世界「最大」のシティ・バンクと米国大統領を救った実力はロンバート街の持つ南アの金塊とダイヤモンドの資力から来ていた。 ちなみに、ポルトガル船が、豊後に漂着したのが一五四一年、, ポルトガル船来航禁止が一六三九年。 「これより以前、ヨーロッパでは奴隷制度が影を潜めていたが、, 海外―主にアフリカ―から調達することにより、復活を遂げることになったのである」。 ピースボートで2度の世界一周(北半球航路と南半球航路)と、バックパックでの世界一周で、現在、世界3周して73ヶ国を訪問している転職トラベラー。
序章 交差するディアスポラ―日本人奴隷と改宗ユダヤ人商人の物語 第1章 アジア(マカオ;フィリピン;ゴア) 第2章 スペイン領中南米地域(メキシコ;ペルー;アルゼンチン) 第3章 ヨーロッパ(ポルトガル;スペイン) それは、北原白秋が詩にしているように, 国際政治、歴史、脳科学、芸術、仏教などに興味があり、読んだ本をブログにあげています。(スマホでは読み難い), 誰にも理解されず、トラウマに苦しんでいるあなたへ・・・/『身体はトラウマを記録する』 ベッセル・ヴァン・デア・コーク, イギリス陸軍特殊空挺部隊・SAS | クリス・マクナブ『SAS・特殊部隊式 実戦メンタル強化マニュアル』, 日本を代表する軍事アナリストの原点。そして海兵隊・・・ |『在日米軍―軍事占領40年目の戦慄』小川 和久, そして我々も沈黙する・・・|『神々の沈黙―意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ. 口先では綺麗ごとばかり述べ、裏では銀などの商品や奴隷貿易で独占的利益を享受し、, 『イエズス会の世界戦略』のなかで、高橋裕史氏は次のように述べている。 日本人奴隷の歴史. 【旅歴】
スペインなどから多くの日本人奴隷が存在していたことが、新出の史料から確認されている。, 『Escravatura e Diaspora Japonesa nos Seculos ⅩⅥ e ⅩⅦ, 岡田英弘氏は『世界史の誕生』のなかで次のように述べている。 と述べられていて、認識の違いが顕著だ。, モンテスキューの『法の精神』(一七四八年)が、一七五一年にカトリック教会の『禁書目録』, に加えられ、スペインの歴代の王たちは、同作品の植民地ラテンアメリカでの普及を阻止すべ, く、船の積み荷から没収して定期的に処分していたという指摘もしている。 南スペイン・アンダルシアの人口3万人の小さな街、コリア・デル・リオ。白壁の家が建ち並ぶ、なんの変哲も無い典型的なアンダルシアの街のように見えます。しかしこの町には、一風変わった苗字の人たちが暮らしています…その苗字は、「japon(ハポン ーもし、秀吉がバテレン追放令を出していなかったら、今頃、日本人奴隷の子孫が世界中にいたかもしれません… ーもし、秀吉が天下統一していなかったら、九州から文化的侵略が進み、日本は好き放題やられてしまったかもしれません… 40%の日本人DNAはユダヤ人との強いつながりを示す ... 彼らは祭司家系の中でもとくに由緒ある人々で、大祭司アロンの子孫とされています。 ... というのは、シンルン族は中国を放浪していたとき、他民族に支配され、奴隷にされて苦役を課せられたのです 「『カトリック教会による、カトリック教会自身の改革と刷新』が推し進められている, イエズス会 societas jesu 誕生の瞬間である」。 ポルトガルの奴隷貿易(ポルトガルのどれいぼうえき)では、主に16世紀以降のポルトガル人によるアジア人の奴隷貿易について述べる。ポルトガルにおいては古くから奴隷制が存在し、古代ローマ、ウマイヤ朝など時代を通じてそのあり方が変化してきた。 「キリスト教と日本人奴隷」スペインの“日本植民地計画”を防いだ豊臣秀吉の政策とは レコンキスタ以降、スペイン、ポルトガル人は香料を求めて世界中を荒らしまわりますが、スペインは土地と人民を支配するやり方を取ってきます。 と、中南米への植民地政策に対してのスペインの内情を上述のように述べているのだが、, 『1493 世界を変えた大陸間の「交換」』のなかでチャールズ・C・マンは、 さらには、 「奴隷制度が公認の制度として存在したヨーロッパとは基本が違うということ、, 日本には『公の制度としての奴隷制度』はなく、それを合法的と見る伝統はなかった」。 一例をあげると、 フランス人の冒険家ジャン・モケは、一六一〇年ゴアに滞在した頃の、, そうではないキリスト教の方もたくさんいるのも事実なのだが。 元ライザップのトレーナーであり、元警察官。
スペインに残った日本人と支倉の子孫対面 会員限定有料記事 毎日新聞 2017年11月22日 20時01分 (最終更新 11月22日 20時07分) スペイン アナンヌキをご存知でしょうか?アナンヌキとは爬虫類人とも呼ばれ、人間を作った宇宙人だと言われています。シュメール文明という最古の文明がありますが、実はそのシュメール文明を作ったのもアナンヌキという説が! 今回はそんなアナンヌキの謎についてまとめます! 【デザインホテル偏愛トラベラー】時を忘れるアーバンリゾート、沖縄のベストホテル「ホテル ... 【WeeklyTABIPPO Vol.7】年末年始のTABIPPOメンバーをチェック!. 「日本にも人身売買がなかったわけではない。特に戦国時代はこれがひどく、, 否定できない」。 そんな野心を抱いて、わざわざご丁寧に日本にまでやってきた。, 大航海時代は学校やメディアで述べられているような、ロマン溢れる時代では決してない。 自分の欲求を充たすために、わざわざ外にまで進出して、他の文明を消滅させたのは, いただけないだろう、と現在から眺めれば思うこと。 コリア・デル・リオ( Coria del Río )は、スペイン・アンダルシア州 セビリア県のムニシピオ(基礎自治体)。 セビリアの南方約15kmにあり、グアダルキビール川に面する。. 海外に日本人奴隷の子孫はいるのですか?天草四郎やキリシタン大名などがポルトガル商人に奴隷として日本人を売っていたようですが、そうした奴隷の子孫が各地にいるので… 日本の中世期で、盛んに奴隷ビジネス(詳しくは⇒)が行われていたことを別記事でも紹介しましたが、この流れは国内だけの話しではありません。日本は信長が殺され、次に秀吉が台頭し、その次に家康が政権を開くという、目まぐるしい状況変化が起こっていました。 このころ日本の外では、大航海時代でした。スペイン、ポルトガルが物凄い勢いで各国を植民地化していきます。しばらくするとそこに、オランダとイギリスが割って入ってくるわけです。この競争は激化しそのエリアは東南アジアにまで及 … 「スペインの植民地政策に対する激しい糾弾があり、スペイン国内の神学者の間で議論が, 紛糾した」 「キリスト教と日本人奴隷」スペインの“日本植民地計画”を防いだ豊臣秀吉の政策とは レコンキスタ以降、スペイン、ポルトガル人は香料を求めて世界中を荒らしまわりますが、スペインは土地と人民を支配するやり方を取ってきます。 日本人奴隷の売買を止め海外のすべての日本人を帰国させることなどを命じる。 コエリョはスペイン艦隊を呼び戦争の準備を行うなど秀吉に威圧をかけたが、逆に秀吉を激怒させる事となった。 十六世紀から十七世紀、戦国時代中期から江戸時代初期にかけて、多くの日本人が海を渡り、東南アジアから東シナ海にかけて様々な活動を行った。海を渡った日本人はどのような人々だったか、大きく(1)倭寇(2)武士・雑兵(傭兵・奴隷)(3) 商人・労働 コリア・デル・リオ( Coria del Río )は、スペイン・アンダルシア州 セビリア県のムニシピオ(基礎自治体)。 セビリアの南方約15kmにあり、グアダルキビール川に面する。. としているが、先述の『戦国と宗教』の神田千里氏によれば、 歴史に無知な者でございます。今まで、聞いたことが無かったのですが、キリスト教の宣教師が日本人を奴隷として拉致・連行し、外国に売り払っていたという話を耳にはさみました。これは歴史上の事実ですか? それとも、キリスト教嫌い と、山本七平氏よりさらに詳しく述べている。 「西ヨーロッパ人の勢力を全地球上に拡大した大航海時代は、, その背景には、イスラム世界から伝わった羅針盤の実用化、造船技術の発達もあるだろう。, そんな、ヨーロッパ文明の特徴を、松本健一氏は『日本の近代1 – 開国・維新 1853~1871』の, 中で、次のように評している。 スペインに日本人の子孫たちがいるなんて知らなかった。 僕は今センダイに住んでて、ハセクラの旅に関して色々調べてるんだ。 何か知ってる情報があったら何でも教えて欲しい。 スペインにサムライの子孫とか、マジで興味深いな。 +13 スペインには、日本を意味する「ハポン(Japon)」という名字があるそうです。 日本の侍の子孫が暮らす、「コリア・デル・リオ(Coria del Río)」という町には、「ハポン」さんが600人も住んでいるん … ironna.jp さて、それではイエス様は奴隷についてどのように語られたのでしょうか。 ヨハネ 福音書には、イエス様から「奴隷」ということばが発せられたことが記録されています。. 1614年、仙台藩の伊達政宗の家臣支倉常長が率いる慶長遣欧使節が滞在したことで知られる。 としている。 ハポン姓の謎について *ハポン(japo'n)とは、スペイン語で、日本を意味する。 スペイン人の中で実は、「日本」という姓を 持つ人がいる。 この姓の由来はどこから来ているのだろう? お隣の中国では、明末からキリシタンが増加しはじめ、一六七〇年代には二七万人を超え、, 清では、一六九二年にキリスト教をいったん公認して、一七〇六年になって宣教師を追放し、, 新出の史料を基に、世界各地に拡散されていった日本人奴隷の事例を数多くとりあげている。, ひだ襟職人になり店舗を経営していたりと様々。 そして、この時代の国際情勢を山本七平氏が、『日本人とは何か。』の中で、わかりやすく述, べている。 ちなみに、秀吉は、天正十五年(一五八七)六月十八日に「覚」十一ヵ条(キリシタン禁令)、, もちろん奴隷貿易で日本人が売られているということもあるが、 そして、理論的根拠としていたのは、アリストテレスの『政治学』。, 高橋裕史氏の『イエズス会の世界戦略』のなかで述べていたのを、再び引用する。 【その他】
スペイン南部、人口3万人ほどの小さな都市コリア・デル・リオ(以下、コリア)に、「サムライの末裔」と称するスペイン人が600人以上暮らしている。彼らの姓は「ハポン」(スペイン語で日本… Amazonでルシオ・デ・ソウザ, 岡 美穂子の大航海時代の日本人奴隷 (中公叢書)。アマゾンならポイント還元本が多数。ルシオ・デ・ソウザ, 岡 美穂子作品ほか、お急ぎ便対象商品は当日お届けも可能。また大航海時代の日本人奴隷 (中公叢書)もアマゾン配送商品なら通常配送無料。 1618年(慶長18年)に、伊達政宗がスペイン国王フェリペ3世とローマ教皇パウロ5世のもとに派遣した慶長遣欧使節団。彼らが長期滞在したとされるアンダルシア地方のとある村には、現在「ハポン(日本)」という苗字を名乗るスペイン人が暮らしている。 渡邊大門 前回、豊臣秀吉がいかにして、人身売買の対策を講じたのかを確認した。今回は、世界的な規模に達した奴隷貿易と日本との関係について触れておこう。 奴隷を正当化した宗教 秀吉とコエリョの口論 黙認したイエズス会 ハポン姓の謎について *ハポン(japo'n)とは、スペイン語で、日本を意味する。 スペイン人の中で実は、「日本」という姓を 持つ人がいる。 この姓の由来はどこから来ているのだろう? だが、 そして、 ギャラリー:奴隷だった祖先がつくった町 その再建を願い集まった子孫たち 写真12点(画像クリックでギャラリーページへ) 1960年代の最盛期、アフリカタウンの人口は約1万2000人だったが、今は2000人以下に減ってしまった。 先述の『世界史の誕生』のなかで岡田英弘氏は、 ヨハネ 福音書 8:33-35. 「ヨーロッパ人は、『未開の地』と見なす故国以外の土地では、, 宗教的道徳心に基づく合法的な取引を守る必要はないと考える傾向にあった」。 「これらの日本人奴隷の出身地に、『豊後』が多く見られるのは事実ではあるが、, 積極的に奴隷貿易に関与したとは言い難い」 と説明されている。 「ローマ教皇パウルス三世は一五四〇年九月二七日付けで, ここにイエズス会は修道会として公認されるにいたったのである」。 松坂の代々続く商人の家に生まれる。22歳の時安南に渡り日本人街で貿易を営む。1636年帰朝禁止令にあったため帰国を断念、安南国王一族の娘と結婚し定住を決意。以後砂糖や銀貨を日本に送り角屋一族の繁栄をもたらした。 と山本七平氏は述べている。 そして黒人を奴隷とする事を定めた悪名高い南アフリカのアパルトヘイト法を起草したのがスコットランド銀行であった。 世界「最大」のシティ・バンクと米国大統領を救った実力はロンバート街の持つ南アの金塊とダイヤモンドの資力から来ていた。 日本人奴隷の歴史. 渡邊大門 前回、豊臣秀吉がいかにして、人身売買の対策を講じたのかを確認した。今回は、世界的な規模に達した奴隷貿易と日本との関係について触れておこう。 奴隷を正当化した宗教 秀吉とコエリョの口論 黙認したイエズス会 1614年、仙台藩の伊達政宗の家臣支倉常長が率いる慶長遣欧使節が滞在したことで知られる。 アナンヌキをご存知でしょうか?アナンヌキとは爬虫類人とも呼ばれ、人間を作った宇宙人だと言われています。シュメール文明という最古の文明がありますが、実はそのシュメール文明を作ったのもアナンヌキという説が! 今回はそんなアナンヌキの謎についてまとめます! 【WITH! 海外では頻繁に行われている様子の人身売買。ですが実は日本人女性も多く被害にあっているんです。その実態は性奴隷目的がメイン。まだ10代の若い日本人女性が性奴隷としてお金でやり取りされているんです。今回はそんな闇深い人身売買の実態をまとめます。 その世界観も背景にあると、さらに踏み込んで述べている。, 話を『大航海時代の日本人奴隷』に戻すと、著者のルシオ・デ・ソウザも、 1618年(慶長18年)に、伊達政宗がスペイン国王フェリペ3世とローマ教皇パウロ5世のもとに派遣した慶長遣欧使節団。彼らが長期滞在したとされるアンダルシア地方のとある村には、現在「ハポン(日本)」という苗字を名乗るスペイン人が暮らしている。 「宣教師らはキリシタンを煽動して寺社を破壊させたし、自らも仏像を焼却し、, 人身売買にも関与した」。 スペインに残った日本人と支倉の子孫対面 会員限定有料記事 毎日新聞 2017年11月22日 20時01分 (最終更新 11月22日 20時07分) スペイン こんにちは。転職トラベラー&世界一周評論家の増戸です。 今回は世界3周目の最中に訪れ、最も歴史を感じた場所であるスペインの通称「ハポン村」についてお伝えします。 こんにちは。転職トラベラー&世界一周評論家の増戸です。 今回は世界3周目の最中に訪れ、最も歴史を感じた場所であるスペインの通称「ハポン村」についてお伝えします。 「戦国時代の『乱取り』と呼ばれる、戦時の捕虜の習慣などを要因として、, 多くの日本人が『奴隷』として国外へ運ばれたのである」。 「イエズス会宣教師の来日は、ポルトガル王室の海外進出政策によるものであった。, イスパニア(スペイン)と結びついたのが、フランシスコ会・アウグスチノ会・ドミニコ会で、, 最高責任者はローマ教皇。 平凡なタイトルの本から思いがけない物語が浮上してくることがある。本書『移民と日本人』(無明舎出版)もその一例だ。副題に「ブラジル移民110年の歴史から」とあるように、明治以降のブラジル移民を扱ったものと思いきや、意外な話が出てきて驚く。 「一四五四年、アフリカから奴隷を強制連行していたポルトガルは、, その内容は、次の通りである(牧英正 『日本法史における人身売買の研究』引用史料より)。, 至上の命題だったのであろう。それゆえ正当化されたのである」。