日本史専門なので、世界史は少ししか知識しかありません(^_^;)「スペイン」と「ポルトガル」について質問です。1、スペインとポルトガルは日本と韓国のように仲が悪いのでしょうか?それとも中国と朝鮮のように属国関係なのでしょうか? スペインに滞在していると、人々の生活に宗教が深く関連していることが分かります。 ワウネタ海外生活は海外にスポットを当てた話題やネタを海外ナビする海外情報ネタサイトです。プチ海外生活を疑似体験できます。 NHK大河ドラマの「いだてん」がイマイチ盛り上がらないらしい。大河ドラマはやはり歴史ものということなのか。とはいえ歴史ものも同工異曲、もう見飽きた人も少なくないだろう。新機軸はないか。, 悩めるNHKスタッフにお薦めしたいのが本書『戦国日本と大航海時代―― 秀吉・家康・政宗の外交戦略』(中央公論新社)だ。著者は平川新・宮城学院女子大学学長。, タイトルだけ見ると、ちょっと分かりづらいが、「帯」の方がストレートだ。「日本はなぜ『世界最強』スペインの植民地にならなかったのか」。, 信長、秀吉、家康が天下人たらんと国内でしのぎを削っていた戦国時代。世界に目を転じると、スペイン、ポルトガル、イギリス、オランダなどの列強が国外に版図を広げようとして、あちこちでぶつかっていた。この時期に来日した宣教師や国際的な商人たちは、日本事情を本国に送りながら、日本との関係をどうするか、本国と思案を続けていた。中でも当時、世界的に圧倒的なパワーを持っていたのがスペインだった。, 本書でも触れられているが、バスコ・ダ・ガマやマゼランによって新航路を切り開いたスペインとポルトガルは15世紀末から16世紀前半にかけて条約を結び、世界支配を両国で二分することに合意していた。日本はちょうどその境界線にあった。したがって16世紀半ばになると、両国の宣教師が入れ替わり立ち代わり来日する。, 両国は中南米を分け合い、フィリピンはすでにスペインが獲得していた。ポルトガルはマカオに足場を築いていた。スペインはフランシスコ会、ポルトガルはイエズス会。布教と言えば聞こえがいいが、植民地工作の先兵という色合いもあった。, 19世紀が「帝国主義」の時代と言われるが、本書を読むと、16世紀は「前期・帝国主義の時代」とも言うべき様相を強めていたことがよくわかる。「大航海時代」などというのは、実態を隠した都合のいい命名かもしれない。, 西欧では当時カトリックとプロテスタントが対立していた。宗教改革でプロテスタントが攻勢をかけていた。したがって押され気味だったカトリックのスペイン、ポルトガルは海外に「新天地」を求める必要があった。大航海時代とは、言い方を替えれば、スペイン、ポルトガルによる植民地開拓の時代の幕開けでもあった。, 同じくカトリックといっても、スペインとポルトガルでは会派が異なり、せめぎ合う部分もあった。加えてプロテスタントや非カトリックのオランダ、イギリスも少し遅れて海外開拓に参入してきた。それぞれの国が威信と野望を胸にアフリカ、中南米、アジアへと我先に進出を図る。1543年とされる鉄砲到来、49年のザビエル来日は、そうした国際的な激動の波が、ついに極東の日本にも到達した歴史的な瞬間だったといえる。, スペインとポルトガルは、日本での主導権を得ようと互いに駆け引きを続ける。さらにそこにオランダやイギリスの東インド会社の商人たちが加わる。後発の彼らは、スペイン、ポルトガルの宣教師たちが秘める領土的な野心を天下人に告げ口し、自分たちが興味があるのは日本との貿易だけ、といって取り入ろうとする。1600年に来日し、家康の外交顧問になったウィリアム・アダムス(三浦按針)もその流れの人物だろう。, 最終的にスペイン、ポルトガルを放逐し、長崎で生き残ったのがオランダ。幕末に産業革命の最新成果をもとに大活躍したのがイギリス、というのが大ざっぱに見た世界史と日本史の関わりということになりそうだ。, 戦国時代の多様な対外関係の中で、著者は秀吉の朝鮮出兵に注目した。国内を統一して調子に乗った秀吉が、ほとんど誇大妄想にとらわれて無理な戦争に踏み込んだ、というのがこれまでの通説だったが、著者はまったく違う角度から分析する。, 秀吉は朝鮮出兵の前後に、スペインのフィリピン総督に対して服属要求の書簡を送っている。また、インド・ゴアのポルトガル副王に対してもキリスト教禁止を通知している。さらに両者に対して「明国征服」の野望も伝えている。著者はこれらから「次はお前たちだ!」という秀吉による脅しのニュアンスを感じ取る。, つまり、秀吉の朝鮮出兵は「ポルトガルやスペインによる世界征服事業への対応のあらわれだった」と見る。なかなかダイナミックな視点だ。スペインはこうした秀吉の態度や、日本の軍事力、厳しい禁教政策に恐れをなして「植民地化」を諦めたというわけだ。, もう一つ、長く仙台で教鞭をとってきた著者がこだわっているのが伊達政宗だ。1613年に支倉常長をトップにした慶長遣欧使節を送り、太平洋・メキシコルートでスペインとの独自貿易の道を模索した。政宗はキリスト教を受容して貿易を振興するつもりだった。一方、当時の天下人、家康は禁教のスタンスだったが、政宗と大坂に残る豊臣勢力との連携を懸念し、使節団の出発にはゴーサインを出していた。, ところが、14年から15年にかけて大坂の陣が起きる。そして豊臣が滅ぼされ、家康が完全に日本を手中に収める。すなわち20年に遣欧使節の帰国したときは、国内情勢が一変していた。そのことを察知した政宗は独自貿易の矛を収める。このあたりの駆け引きは本書で最もおもしろいところだ。, 以上のように本書は学術書だが、先行書をもとに生々しいエピソードも多数登場する。誰かが脚本を書けば、すぐにでも大河ドラマになるのではと思った。, 本欄では『信長はなぜ葬られたのか――世界史の中の本能寺の変』(幻冬舎)、『図説 明智光秀』(戎光祥出版)などで戦国時代の権力闘争を、『戦乱と民衆』(講談社)、『飢餓と戦争の戦国を行く』(吉川弘文館)などで、戦国時代の国内の戦争の残虐さや、それに驚いたイエズス会の本国への報告なども紹介している。後者はドラマでは難しいかもしれない。, 「鬼滅の刃」には、日本史のさまざまな暗号が隠されていた!『「鬼滅の暗号」解読の書』, NHK大河ドラマ「青天を衝け」の主人公、渋沢栄一はなぜ「日本資本主義の父」と言われのか?『お金の日本史』. 言語・文字:スペイン語(ラテン文字) 民族:スペイン人が多い; 宗教:ほとんどがキリスト教徒; 特徴:スペイン・ポルトガル語圏の名前が基本です。 第一姓と第二姓の間には「~と」を意味する接続詞やハイフンが置かれることがあります。 スペインではレコンキスタが進んでいき遂にグラナダが陥落(1492)した。そしてコロンブスがイサベル女王からの援助を手に入れスペインは大航海時代に入って行く。様々な技術の発達やイスラム教徒との交流で世界観が広がって新しい時代がやって来た。, スペインより一足早く大航海時代に入っていたのは隣のポルトガル。地中海は遠くそこではすでにイタリア諸都市やカタルーニャが活躍している。大西洋に面したポルトガルは早くからエンリケ航海王の登場で大西洋へ出ていた。, *エンリケ航海王子(1385年~1433年):ポルトガル王ジョアン1世の息子。自らは航海せず王位にもついていないが熱心にアフリカ西岸探検に取り組んだ。ザグレスの航海学校は有名だが本当にあったかは疑問視されている。最大の功績はボジャドール岬を超えたことで長い間これを超えると「急流がある」や「グツグツ煮えている」や「恐竜がいる」などと船乗りたちに恐れられていた。, ペストの流行や十字軍遠征、航海術の発達や世界地図の作製と当時のヨーロッパの世界観が広がって行きスペインとポルトガルが競って大海原へ出ていきいずれは日本へ到着する。種子島に南蛮人がやって来る直前までの歴史のお話。, キリスト教の聖地エルサレムはイスラム教徒の聖地でもある。セルジューク・トルコ朝が領土を拡大しアナトリア(現トルコ)に進出すると脅威を感じたビザンチン帝国(東ローマ帝国)のローマ皇帝はローマ法王ウルバヌス世に救援を求めた。, これを受けたローマ法王はクレルモン公会議を開いて十字軍遠征を呼びかけ、諸侯や騎士たちが立ち上がり第1回十字軍が1096年に出発。「神はそれを望んでおられる。あなたがもしも死んでしまっても、魂は救われるだろう!」, 十字軍遠征は約200年間合計8回にわたりキリスト教徒側の勝手な大義名分のもと蛮行と破壊行動が繰り広げられた。結局失敗に終わるが東方貿易が活性化しベネチアやジェノバなどのイタリアの都市国家が東方貿易で利益を得て発展していく。, 12世紀のヨーロッパ、十字軍遠征盛んな頃に「遠く離れた東方にキリスト教徒が住んでいる。その指導者プレスター・ジョンが十字軍を助けてくれエルサレムの奪回を助けてくれる」という伝説があった。, 15世紀になるとポルトガル人たちはプレスター・ジョンはアフリカにあり豊かな黄金の産地であると思い込む。イベリア半島に残るイスラム教徒を挟み撃ちにし豊かな黄金を手に入れたいを言う思い入れが大航海時代を推進させていく。, 現存する最も古い世界地図は紀元前600年のバビロニア、その後古代ギリシャの学者達によって既に地球を球体であることを前提として創られたものがあった。(いったん中世のヨーロッパではこれが否定される)この時代にほぼ正確に地球の大きさを測ったりしている事には驚く。, *マルコポーロは1254年頃にベネチアの商人の家で生まれた。17歳頃に父と叔父と24年間15000㎞の貿易の旅をした。帰還した後ベネチアが敵対していたジェノバと戦争になり志願して従軍し捕虜になったときにこの旅の話をほかの捕虜に話した。それをまとめたのが東方見聞録。, 1375年に交易が盛んだったカタルーニャでかなり正確なカタロニア地図が作られていて地中海からアラビア半島や紅海、ペルシャ湾やインドが描かれた地図が作られている。, その後マルテル図が1490年にドイツの地理学者によってすでに喜望峰が描かれた地図が作られている。, イタリア、フィレンツエの地理学者で天文学者で数学者のトスカネッリは当時のフィレンツェの知識人たちの中心にいた。友人にブルネレスキ(建築家)やアルベルティ(建築、芸術、多方面の天才)がいて様々な知識や学問が集積していた。ドイツを旅した折ギリシャ人哲学者に会い古代ギリシャ人「ストラボン」の事を知る。その後友人に書き送った手紙に西回りでモルッカ諸島へ行けるという夢のような計画が述べられていた。この手紙の筆写版をコロンブスが手に入れていたらしい。, *ストラボン:紀元前63年頃~23年頃。古代ローマ帝国ギリシャ系の地理学者、歴史家、哲学者。彼の旅はイタリアから地中海沿岸都市、エジプトやエチオピアにいたりその見聞を17巻にいたる「地理書」に残した。, 今でも技術の発達は世界を変える。航海術が飛躍的に発展しそれまでのヨーロッパ人の世界が地中海から大西洋へ広がって行った。, 様々な発見は偶然から始まる。大航海時代がやって来るにあたり何世紀もかけて準備がなされた。, もともと古代からヨーロッパで使われいた船はガレー船と言ってたくさんの漕ぎ手を必要とする大型船だった。多くの漕ぎ手の食糧や飲料水を必要とし風に弱く遠洋航海には向いていなかった。風向きの良く変わる地中海では大きなマストよりこの方が都合が良かった, 中国では古くから三本マストの木造船大型ジャンク船を使っており羅針盤を使い商人たちがインド洋まで出ていた。乗組員500人という大型の船や、もう少し小ぶりの船で乗組員200人くらいの中型船があった。明時代にはアラビア半島やアフリカの東海岸に到着している。, アラビア人たちは紅海やペルシャ湾を拠点に中国や東南アジア、アフリカ東海岸で交易をやっており優れた航海技術を持っていた。彼らが使ったのはダウ船という今のヨットのような一本マストと三角帆で季節風を利用して巧みな航海技術で海のシルクロードで交易をやっていた。, ヨーロッパ人達よりも早くに中国人やアラビア人達はアジアで進んだ技術で航海をやっていてバスコ・ダ・ガマのインド航路発見に水先案内人として活躍したのはアラビア人だった。インド航路はヨーロッパにとっては「発見」でもアラビア人にはすでに知られた航路でしかなかった。, 15世紀に地中海で開発された形の船。スペインではこの型の船をナオと呼ぶ。遠洋航海を前提に作られた大型船で乗組員と物資貨物を大量に搭載できる。欠点は巨大すぎて小回りが利かず強風に弱い。, 少し小型のキャラベル船は座礁の危険が少なく沿岸地帯や河川には入れたので未知の世界での探検に向いていた。, 磁石が南北を示すことを発見したのは中国人が最初。陸の見えるところを航海していた時代なら方向は目視できるが目印の無い海の中、方角と位置を確認する作業は生死にかかわる。11世紀には既に中国で航海に使われそれをアラビア商人がヨーロッパに伝えた。海の上で正確に方向を知るための羅針盤が発展し実用化し使われた。, 黒死病と言って恐れられたペストはヨーロッパの人口を一気に減少させたが当時の食糧難を救った側面があった。, 病原体が発見されるまで伝染病がうつるのは臭いによると信じられていたため臭いを消す香辛料が高額で取引されていた。また多少臭いの強い肉を食べる場合もあり香辛料は貴重品で胡椒と銀が同じ値段だったと言われている。シルクロードを渡ってベネチアの商人の手を通ると高額になる胡椒を直接西回りで手に入れようと思った男が登場する。, コロンブスには今だ謎の部分が多い。出生地もいまだに正確にはわかっていないがポルトガルのジョアン2世国王に仕えて船に乗っていた事は間違いない。, マルコポーロの東方見聞録に興味を持ちトスカネッリの地球球体説を知り西回り航海を考えた。ポルトガルはすでにアフリカ西海岸セネガルの奴隷貿易をやっていて暴利をむさぼり、1488年喜望峰に到着。バルトロメオ・ディアスの喜望峰発見でインド洋が近い事を手に入れたポルトガルにとってコロンブスの提唱する西回りに意味が無くなってしまった。, ポルトガル王の援助をあきらめスペインへやって来たコロンブスはウエルバにあるラ・ラビダ修道院で滞在した。修道院長のフワン・ぺレス神父はコロンブスの話に感銘を受け様々な援助を惜しまなかった。その縁で知り合ったメディナ・セリ公から紹介されカトリック両王に謁見が許された。, 当時グラナダへの戦争(最後のイスラム王朝陥落戦)をやっていたスペインに費用は無く一旦断られコロンブスはあきらめてフランス王に援助を求めて旅立つところだった。, 1492年グラナダの陥落の直後イサベル女王の伝令がコロンブスを追いかけピノス・プエンテの村の橋の上でコロンブスに追いついた。もしも、この時追いつかなければコロンブスはフランス王の援助で出港していたかも、中南米がフランス語圏になっていたかもしれないという歴史のひとこまです。, 陥落したアルハンブラ宮殿でイサベル女王から宝石箱を譲り受けそれを売って船の準備の一部にした。, 実はイサベル女王からの援助だけでは航海の準備には不十分だった。特に船員の数は足りなく「よそ者と未知の航海へ乗り出そう」という船員などいなかった。この国では今でもコネが力を発揮する、当然当時もそうだったに違いない。よそ者など誰も信じていないのだ。, 前述のラ・ラビダ修道院フワン・ぺレス神父がマルティン・アロンソ・ピンソンを紹介してくれて状況が一変する。パロス港で海運業をやっていたピンソン家は優秀な船乗りで船員や航海に必要な様々なものを提供してくれた。特に航海技術や操舵技術においてピンソン兄弟の経験と知識はコロンブスの航海に大きく貢献している。, パロス・デラ・フランテーラに行くとコロンブスの銅像も通りの名前も見当たらない。街の英雄はピンソン兄弟なのです。, 1492年は世界史的な事件が続いた不思議な年でグラナダの陥落、コロンブスの出港、フィレンツェではメディチ家のロレンツォの暗殺と続いた。そしてスペインのボルジア家ローマ法王の登場。カトリックの頂点にあたるローマ法王という地位は最も人間のどろどろした部分が渦巻いていた世界だった。そこに好色で強欲な好人物が登場する。, 金と権力と女を手に入れたアレッサンドロ6世は愛人との間に子供までいた。法王選挙で払える限りの袖の下をばら撒いて自分に投票させた超やり手スペイン人ローマ法王の登場となる。, 発見の時代にスペインとポルトガルの海での領有権をはっきりさせる為1479年ポルトガルはアゾレス諸島、マデイラ諸島、ヴェルデ沖岬を領有しスペインはカナリアス諸島を領有すると取り決めたのがアルカソバス条約。地図に左右に線を引き地球を横割りにした条約だった。, コロンブスが1493年に戻って来るとアルカソバス条約では到着した土地の領有はポルトガルの物になる。スペイン側は時のローマ法王アレキサンドル6世に自分たちの領有についての訴えを起こした。スペイン人ローマ法王があまりにもスペイン有利な回勅を発行したのでポルトガルがスペインに乗り込んできてトルデシージャスで会議が行われた。, 1494年に地球に新しい境界線を引いたのがトルデシージャス条約。今度は地図に南北に線を引いて地球を縦に割った。, 下の地図の点線の方がアレキサンドル6世の引いた線だったが会議で少し西へ引き直したのがトルデシージャス条約の線。この後ポルトガルはブラジルへ到着する。今も南米でブラジルのみはポルトガル語圏なのはこの線より内側にポルトガルはブラジルを発見したから。, ポルトガルはこの線より東へ、スペインは西へ行くことが決まる。ポルトガルは東へ向かい喜望峰を通過してバスコダガマのインド航路発見に繋がる。, トルデシージャス条約でポルトガルは東回りでアジアに向かうことが決まり、すでに喜望峰が発見されているので東回りでインドに派遣されたのがバスコダガマ。1497年にリスボンを出発。, 途中モザンビークではイスラム教徒から砲撃を受けるがマリンディでは歓迎されアラビア人の水先案内人を雇って1498年にムガール帝国のインド、カリカットに到着。, バスコダガマの持って行ったポルトガル交易品はカリカットで取引されている品物に比べるとみすぼらしく馬鹿にされたと記録に残る。, カリカットの王との間に揉め事や監禁事件が起こり胡椒を積み人質を取って逃げるように退散してリスボンに戻って行く。, その後ポルトガル商人はインドから更に中国へ渡って行き活躍し、中国人には南蛮人と呼ばれる。, そしてポルトガル商人が乗った中国のジャンク船が台風の風に流されて種子島に到着するのはあともう少しだ。, スペインに1989年から住んで日本からのお客様と旅に行ったり美術館を巡ったりしています。お休みの日は夫とキャンピングカーで放浪、スペインに長年住んでもスペインが大好きで日本から来たお客様にもスペイン大好きになってもらうために働いています。趣味はバイオリンとスキーとワイン。 All rights reserved. 西欧では当時カトリックとプロテスタントが対立していた。宗教改革でプロテスタントが攻勢をかけていた。したがって押され気味だったカトリックのスペイン、ポルトガルは海外に「新天地」を求める必要があった。 「スペイン建国の母」と言われるイサベル女王は父カスティーリア王ホアン2世の2番目の妻(ポルトガル王女)の長女。父が他界すると兄(父王ホアン2世の最初の結婚の息子)が国王エンリケ4世として即位するがイサベルと弟のアルフォンソは母とともに追放され惨めな時代を生きる。 ポルトガルの歴史と文化からポルトガル人の特徴に関する20のあれこれを紹介していきます。ポルトガルやポルトガル人に興味があるなら確認してみましょう。南ヨーロッパのポルトガルはかつて、歴史の中で帝国と呼ばれ、大勢力を誇ったこともありました。 スペイン,ポルトガル,ナポリ,ミラノ,ネーデルラント,アメリカ大陸,フィリピンにわたる世界帝国を支配,レパントの海戦でトルコに大勝した。プロテスタントを弾圧して反宗教改革の先頭に立ち,またエル・エスコリアル宮殿を造営。 スペインは、カトリックの影響がとても色濃い国です。 国民のほとんどはカトリックですが、毎日、毎週必ずミサに行くという熱心な信者もいれば、形式的にカトリックであるだけだ、という人もいて、街の中でも現在のカトリックの教会の在り方など批判を耳にすることもよくあります。 スペイン宗教裁判(スペイン 異端審問)とは、 主に15世紀以降のイベリア 半島で行われていたキリスト教による異端審問、及び弾圧のこと。; 1をネタにしてモンティ・パイソンが創作したスケッチ「スペイン宗教裁判」。; 本稿では両方を扱うという無 茶をやってみる。 エルサレム(1km四方の面積)は,ユダヤ教の歎きの壁,キリ … スペインの言語そして宗教。人口の97%がカトリック教徒である。以前はカトリックを国教としていたが、1978年憲法により、社会における教会の役割をみとめながらも、国教をもたないことをさだめた。 ここではない別の場所で「大航海時代にスペインやポルトガルは、実は日本だけは植民地にする意図が皆無だった。秀吉や家康がキリシタン弾圧したのは、イギリスオランダにそそのかされた上に秀吉たちが自己保身欲... - 歴史学 [解決済 - 2020/08/21] | 教えて!goo ポルトガルやスペインという国王の元の軍事国家は キリスト教という宗教を宣教師と言う先遣隊を派遣して 世界を征服せんと計画した。 1549年 フランシスコ・ザビエルの来日 (使命は全世界をキリスト教国とするため極秘情報活動) キリスト教の聖地エルサレムはイスラム教徒の聖地でもある。セルジューク・トルコ朝が領土を拡大しアナトリア(現トルコ)に進出すると脅威を感じたビザンチン帝国(東ローマ帝国)のローマ皇帝はローマ法王ウルバヌス世に救援を求めた。 これを受けたローマ法王はクレルモン公会議を開いて十字軍遠征を呼びかけ、諸侯や騎士たちが立ち上がり第1回十字軍が1096年に出発。「神はそれを望んでおられる。あなたがも … 大森由美 のすべての投稿を表示, このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください。, ビルバオとグッゲンハイム美術館<世界で最も成功した再開発ビルバオ効果の街と近代アート>, スペインのクリスマス時期のお店やレストラン情報と過ごし方。意外と注意は12月24日の夜。, スペイン語がこんなに沢山日本語に!<日本語になっているスペイン語をまとめてみました>, 旧約聖書に挑戦⑦ アブラハムの物語その二「三人の天使とソドムとゴモラそしてイサクの誕生」. 人々の生活に宗教や他文化が溶け込んでいるスペイン。例えば人の名前や祝日はキリスト教に由来するものが多く、また料理ではバターよりオリーブオイルやラードがよく使われるなど、目線を変えるとヨーロッパとアフリカの間で揺れ動いた歴史が見えてきます。 2021年2月14日から放送予定のNHK大河ドラマ「青天を衝け」の主人公、渋沢栄一。「日本資本主義の父」と言われるが、その理由は何なのか? 本書『お金の日本史』(株式会社KADOKAWA)を読むと、納得するだろう。 Copyright (c) J-CAST, Inc. 2004-2021. 国民的な大ヒットになった漫画「鬼滅の刃」。その秘密を探った本が次々と出ている。本書『「鬼滅の暗号」解読の書』(宝島社)は、日本史の視点から読み解いたものだ。駒澤大学文学部歴史学科教授の瀧音能之さんが監修している。竈門炭治郎と鬼舞辻無惨のモ... 生き物は、わたしたちを夢中にさせる魅力的な存在だ。 スペインは、カトリシズムとイスラム教との間だけではなく、同様にユダヤ教(更に小規模のプロテスタント)との間でも発生した宗教的闘争から生まれて来て国民国家になったと見られている。 イベリア半島の殆どはローマ帝国の領土だった時に最初にキリスト教化した。 スペインの宗教に関する調査では、ローマ・カトリック教会がスペイン国内で圧倒的に最大規模のキリスト教の教派となっている。2011年8月に行われた社会学調査センター調査によると、約70.1%のスペイン人がカトリック教徒であると申告し、2.7%が他の宗教であると、そして約25%が無宗教であると解答している 。殆どのスペイン人は定期的には儀式に参加しない。同じ調査では宗教的であると解答したスペイン人の56%が年間で数回しかミサに参列しないと答え、9%が一カ月に数回は参列していると答 … スペイン・ポルトガルは,陸路による交易をあきらめざるをえませんでした。つ まり,海に活路を見い出す以外に生きる道はなかったのです。 . 『聖母マリアが現れる、という奇跡が起こった地、ファティマ (Fatima) ポルトガル人なら誰もが知っているカトリックの聖地。ネルソン(旦那)のお母さんとおばあ...』ファティマ(ポルトガル)旅行についてMikaさんの旅行記です。 スペイン・オランダの繁栄 【前回までのあらすじ】(6)主権国家体制の形成 絶対王政1 スペインの全盛期 大航海時代以降のスペインは破竹の勢いで成長していきます。 以前の解説記事にて説明したとおり、スペインという国はカスティリア王国とアラゴン王国が統合してできた国です。  たとえば、動物学者・今泉忠明さんが監修した『ざんねんないきもの事典』(高橋書店)シリーズは、累計発行部数420万部超を記録。ゲームソフト「あつまれ どうぶつの森」の世界的ヒットも記憶... 親、配偶者、自分もいつか認知症になるかもしれない。ただ、そもそも認知症についてよく知らない。「いつか」が来たときに調べればいいか。そうのんきに構えていたが......。 ポルトガル王室の エンリケ王子が 会長になった時に、教皇から、 “ 新発見の地域の 宗教上の全権 ” が、王室主導の 「 騎士修道会 」 に与えられて、一任されました。 その結果、王室の使命であると共に、大きな名誉ともなっていきました。 スペインのポルトガルの併合 1580年、スペインのフェリペ2世がポルトガル王位を継承し、同君連合となり、実質的には併合した。スペインはポルトガル植民地も併せ「太陽の沈まぬ国」となる。 この時の国外退去者の大半は隣国ポルトガルへの道をたどったというが、そのポルトガルも1496年末にスペイン同様の措置をとったため、ポルトガルを追われたユダヤ教徒たちは、何処へ行くという当てもなくヨーロッパ各地へと散っていったという。  サブタイトルは、「和... 「ムー」が2021年を大予言 新型コロナはどうなる? 東京オリンピックは開催される?, 朝晩、寝たまま1分間ストレッチするだけ! 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